「リスク心理学入門」
−ヒューマン・エラーとリスクイメージ−
岡本 浩一 サイエンス社
会社の先輩に薦められて読んだ。
著者は原子力委員会および安全委員会の専門委員を務められている。
◎ 社会への認知
リスクが受動的か能動的かで受容レベルが1000倍も異なる。
その問題が受動的でないように思えれば疾病リスクの1000倍までのリスクでも受け入れられるのである。
リスク認知は国の文化により異なる傾向がある。
◎ 認知のバイアス
後見の明が先見の明より幅をきかせている。
このバイアスを除くことは基本的に不可能。
何が原因かというと「関心」の高さ。
これはマスコミによって誘導されている。
→ 「致死事象についての判断の正解率が低い」
致死事象に対する情報接触量(マスコミ)が影響している。
新聞記事の認知的影響が大きい
(疾病で死ぬ人が最も多いのだが、いちいち報道されない)
疾病をあわせると事故全体の16倍の死者 しかし報道頻度では事故全体の3倍の報道
志望件数はなんと7倍にもなっている。
ただし、受け手側にもそのような記事を求めているという問題あり。
成熟度の高い社会はマスコミの成熟度も高い (筆者の願い)
◎ プロスペクト理論:確率認知の理論
ポジティブな選択肢の場合にはリスク・アバース(回避)な認知 ★100% 800ドル 85%の確率で1000ドル
ネガティブな選択肢の場合には冒険的リスク・テイクな認知 100% 800ドル失う ★ 85%の確率で1000ドル失う
統計的に3:1で、期待値の低い方を選択する結果が得られている。私も人にためしてみたが同様な割合であった。
これも表現方法を工夫するだけで誘導されるので注意が必要。
◎ 巻末エッセイ:明日のリスク社会のために
リスク管理に従事する人というのは、その大部分が、生涯に一度も経験しないであろう事故に備えてポテンシャリティを
維持することに、その生涯を費やす人たちといっても的外れではない。原子力発電所の運転員もそうである。逆のほうから
見れば、その人が訓練で獲得し、維持しているリスクについての能力や認知などは、心理学的な言葉で言うならば、
外的基準のない能力・認知である、ということになるわけである。
このことは2つの問題を投げかけるであろう。
ひとつは、リスクに備えるポテンシャリティのコストであり、いまひとつは、厳密な意味では外的基準の存在しない能力や
認知概念の妥当性をどのようにして維持するかという問題である。
…
古いたとえだが、囚人にこちらの端からむこうの端へ土を運ばせ、その土をまたもとの端へ運び戻させるということを
続けさせると、やがて気が狂うというたとえがある。
リスク従事者の人生はポテンシャリティにおいて、それとは異なるが、結果において、この囚人と同じである。
リスク従事者の人生がこの囚人の人生と結果において同じになることが、むしろリスク管理の目的でさえある。
そういう人生を支えるには、そのための心の持ち方と価値観が必要である。
たぶん生涯遭遇することがないであろう事態に備える生活の中で、生涯発揮されることのない可能性の高い
自分自身の技量の向上をみつめ、自己実現を感得してゆく生き方が要請される。
リスク管理に従事する人が多くなるにつれ、そういう生き方を可能にするのは何であるかを研究することの
必要性は高まると思われる。
…
社会的コストをどこまで許容するかということは、社会の大きな問題になる。
…
社会が、リスクの広義のコストに寛容さを失うと、リスク管理そのものを不十分にすることが、少なくとも
短期的には、可能である。
リスク管理を不十分にしたことの弊害は急には顕在化しない。
一方、リスクのコストを節約したプラスはすぐに明らかになる。
そのため、リスクに対する社会的対応は、節約的になりがちな面が考えられる。
リスク受容とともにリスク管理が社会システムとして機能するためには、このような意味で
労働評価、コスト評価について社会的認識の成熟が必要である。