「キャスターという仕事」

  国谷 裕子   岩波新書 



ローズアップ現代の国谷さんと言えば知らない人はいないだろう。

名前は裕子と書いて「ヒロコ」とは知らなかった。

あの訴えかける強い視線で始まる生番組。

そのキャスターという仕事をつづられた新書ということで予約した。

多数の予約がいて3か月くらい待ったが、非常に熱い思いが伝わる書であった。

またVTRで番組を見てみたいと思う。

やめられてから書くのではなく途中で読んでいたら、もっといろいろ感じながら番組を

見ることができたのにとちょっと残念な思いだ。

今はNHKオンデマンドがあるので、それから興味深いテーマのものを見てみようと思う。


まず、キャスターという仕事。

国谷さんはNHKのアナウンサーとしては異色だなと思っていたが
アナウンサーではなかった。

帰国子女で海外生活が長く、日本語には自信がなかったというのは初めて知った。

香港でいたときに誘われて放送業界に関わることになり、
主に衛星放送の生番組を担当していて
抜擢されたといいうのが経緯であった。

結婚されていおるが、ダンナのことを「パートナー」と呼んでいた。
これも高学歴自立型現代女性の特徴である。
夫、あるいはハズバンドと呼んだほうがいいように思うのだが。
自分自身のプライベートなことはほとんど書いていなかった。
帰国子女のほかは父親がサラリーマン、大学はアメリカで卒業くらい。

強い個性、プロ意識、を感じた。

本当の全力投球でこの仕事に打ち込んでいるのだなあと感心した。

ウィキペディアで検索
 お父さんは三和銀行か。ご主人は弁護士。


それでは順を追って、書き抜いていこう。
1993年4月から23年間 3784本の記憶である。

最後に読んだあとがきが一番わかりやすかった。


第1章 ハルバースタムの警告
スクープ930/ニュースとNHKスペシャルとの間で/ハルバースタムの警告/言葉の持つ力/

テレビ報道,3つの危うさ
「わかりにくいことを、わかりやすくではなく、わかりやすいと思われていることの背景に潜むわかりにくさを描くことの先に知は芽生える」(是枝裕和氏)
これこそ、クローズアップ現代が目指し、そして私自身がキャスターとしてめざし実践してこようとしてきたことではないだろうか。
是枝さんの文章に触れたとき、私は即座にそう思った。……
結論をすぐ求めるのではなく、出来れば課題の提起、そしてその課題解決へ向けた多角的な思考プロセス、
課題の持つ深さの理解、解決の方向の検討、といった流れを一緒に追体験してほしい。
そんな思いで私は、番組に、そして視聴者に向き合ってきた気がする。

/風向きの原則
テレビは、社会の均質化をもたらす機能を本来的に持っている。
そして一方で、テレビの製作者側も、多くの視聴者を獲得したいがために、視聴者の動向に敏感にならざるを得ない。
この視聴者側と製作者側双方の相互作用は、とても強力なものだ。
テレビは感情の一体化をあおる。
その結果、視聴者の感情の一体化が進めば進むほど、今度は、その視聴者の感情にテレビは寄り添おうとする。
この相互作用は、多数派への流れを加速していくことになる。
そのなかで進むのが少数派の排除、異質なものの排除だ。
劇作家の井上ひさしさんが「風向きの法則」と呼んでいた現象だ。
風向きがメディアによって広められているうちに、その風が次第に大きくなり、誰も逆らえないほど強くなると、
「みんながそう言っている」ということになってしまう。
「風向きの原則」が起きるのだ。」

……

たとえ反発はあっても、きちんと問いを出すこと。
問いを出し続けることが大事だ。
単純化、一元化してしまうことのないよう、多様性の視点、異質性の視点を踏まえた問いかけが重要なのだ。
問いを出し続けることで、
「視聴者に、感情の共有化、一体化を促す」危うさと
「視聴者の情緒や、人々の風向きにテレビが寄り添ってしまう」危うさから
免れたいと私は思ってきた。

第2章 自分へのリベンジ
英語放送からのスタート/

1981年 NHKからの電話 (香港在住)
「お宅には英語が堪能なお嬢さんがいらっしゃいましたよね?」
 (英語でニュースを読むアナウンサーを探していた。)
 

駆け出し時代/「伝えること」の出発点/ジャーナリズムへの入り口/

誰も観ていないテレビ

報道にまるわるさまざまな仕事を経験するようになって5年ほどたった1985年の暮れ、
私は結婚し、東京での仕事に区切りをつけて、パートナーがいたワシントンに向かった。
NHKアメリカ総局のリサーチャーになった。
 そしてテレビに出ないかとのお誘い。ワールドニュース
 (大丈夫だからと…、その理由は)
「新しく試験放送が始まる衛星放送を受信するには専用のアンテナが必要だが、まだ持っている人はほとんどいない。
それに国谷さんが登場するのは日本時間の夜中の3時と5時だから、誰も観ていないよ」というのだ。
「それならば、ものは試しだ」と考えて、私はチャレンジすることとした。

 ☆立花隆さんは「いつも観てますよ」とスタジオに現れた あたらしもの好きの立花さん 
 私にとって最初の視聴者となった。


/大学か,それとも仕事か/挫折/なりたい自分が見えた/時代の現場に立つ/歴史が私を押し出した/試練のインタビュー/リベンジの時

第3章 クローズアップ現代
この人,大丈夫なの?/私の役割は何?/初めての政治家インタビュー/

時代の変化に背中を押されて
大きなチェンジのときには、ニューカマーでもレイトカラーでも追いつける。
本格的な競争社会やグローバリズムの波が日本社会に入ってきた地殻変動のときに、
<クローズアップ現代>も、そして私自身もスタートラインにたった。
そしてそこからのロケットスタート。
番組は変化する時代に向き合うことになり、そして、その変化を伝えるのが、キャスターとしての私の仕事だった。
転機の時代が、私自身にも大きな転機をもたらしたように思える。



/初めての震災報道

第4章 キャスターの役割
キャスターとは何者か/
キャスターという言葉は和製英語。TBSの田英夫さんが初代ニュースカスター。(アナウンサーではなく共同通信社から転身)
アメリカのニュース番組では、「アンカー」と呼ばれている。
番組の視聴者に届ける最終ランナーという意味なのだが、取材に飛び回るのではなく、スタジオに鎖(アンカー)を下している存在という意味も
込められているかも知れない。


クローズアップ現代の構成/

キャスターの役割=視聴者と取材者の橋渡し役
そして、この橋渡しは言葉で行われる。
映像が直接的に視聴者の感覚に飛びこむのに対し、キャスターはあくまで言葉を媒介にして視聴者に向き合うことになる。
この差はとても大きい。

/キャスターの役割=自分の言葉で語る/

キャスターの役割=言葉探し
2006年4月 詩人の長田さんとの対談

国谷
「言葉の重要性を忘れさせてしまうようなテレビで、今、言葉はむしろどんどん重要になってきている。
 一見わかりやすく見えるが、実は、非常に複雑になってきている。
 そのことをキャスターとしてどうやってどのような言葉で伝えることにより関心を持ってもらうのか。
 ……それは大きな課題ですね。」

長田
「驚くほど映像も増え、呆然とするほど情報も増えた。にもっかわらず、テレビの根っこのところにあるのは、やはり言葉です。
 それも、喋り言葉です。だからみんな以前よりも決定的に言葉で判断するようになったと思うのです。」

国谷
「本当に言葉が大事になってきているのに、まだ十分な言葉を作り出せていないですね」

(中略)

長田
「トーク番組やバラエティ番組に求められるのが手持ちの言葉をどうあやつるかということだとすれば、
 ニュース番組というのは、その時まではなかった出来事を前にして、それをどう言い表すかという言葉を見つけないと届かない。
 というのも、ニュースというのは、情報と同時に、概念を提示しないといけないですからね。
 概念を提示するというのは、概念は言葉によって提示されるのですから、どういう言葉で語られるか、語られたかということが、
 すごく重要です。」

/細分化する言葉


第5章 試写という戦場
 ⇒この章は制作現場の内容がわかって大変理解が深まった。
  真剣勝負の社内会議である。

クローズアップ現代が放送されるまで/2回の全体試写/真剣勝負/キャスターとして発言する/それは本当に必要ですか?/一番伝えたいことは何ですか?/「時間軸」からの視点/最後のバトンを受けて走り切る


こうして、1日2回、翌日分と当日分の放送の全体試写を20年あまり続けてきた。
テレビジャーナリズムの素晴らしい可能性も、またそれを損ないかねない危うさも、この「全体試写」という場に交錯する。
第9章で触れることになるが、「危うさ」の芽を取りこぼしてしまった、苦く痛切な経験もあった。
しかし、<クローズアップ現代>の試写で繰り返されてきた議論は、その場にいた一人ひとりにとって、自分自身の納得に
近づくための最も大事なプロセスであった。
自分は納得できないうちに放送を迎えてしまったら、自分自身を責めることになる。
自分が納得していないうちは、話せない、伝えられない、テレビカメラの前に立てない。
その思いで私は、試写という戦場に臨んできた。



第6章 前説とゲストトーク
「熱」を伝える

視聴者の理解を助けるために、前説に合せて、図表、CG、映像を挿入することもあったが、
前説のなかでポイントになるところは、
きちんと私の正面の顔に映像を戻して欲しいと注文した。
視聴者にフェイス・トゥ・フェイスで伝えたかった。
思いを伝えるためには目線を合わせて話すことが大切だと思っていたのだ。

 ⇒ すごい、素晴らしいと感動した、

/言葉の力と怖さ/フェアであること/

キャスターとしての視点

番組を進めていくうえでの視聴者像は、「一般の人々」という抽象的な存在ではなく、
一本一本の番組テーマに即して、そのテーマによって具体的に影響を強く受ける人々をイメージしていた
ことが多かった。



/生放送へのこだわり/「俺は帰る」/対話の空気をそのままに/

見えないことを語る

ゲストトークのなかでも難易度が高いといつも感じたのが、データなどの事実に基づいた説明や分析よりむしろ、
ゲストのいわば私的な見方を引き出すことだった。
とくに、親と子どもの微妙な関係、自殺、学校、教育などをめぐるテーマの場合、
ゲストが何をどう見るのか、一人の父親、母親としての言葉、あるいは生活者としての眼差しに期待した。


/あともう一問

第7章 インタビューの仕事
インタビューへの興味

インタビューは、自分の能力と準備の深さが試されるものであり、それがさらけ出されるのだ。
帰国子女として日本語にコンプレックスをずっと持ち続けてきた私は、インタビューの相手ときちんと向かい合えるかは、
日本語で伝えることを仕事にできるかという課題に直結していた。
この課題をもし克服できれば、仕事にプライドが持てるようになる。
その意味で、インタビューへの挑戦は、私自身の存在がかかった大きな試練でもあった。


/「聞く」と「聴く」

経済学者の内田康彦さんに「聞と聴」というエッセイがある(「生きること、学ぶこと」)
……
「耳をそばだてて、あるいはチェック・ポイントを置いて聴かなければ人の言うことは聞こえてこない。
がしかし、下手に聴にこだわると、聴いても聞こえない、いや聴けば聴くほど聞くことから遠ざかる、
こちらが仕掛けたチェック・ポイントに関する限りのことは理解されるけれども
存在としての対象は遠のいてしまう」
「聴に徹しながら聞こえてくるのを待つ」
大切なのは聞こえてくるように、聴くこと。
インタビューの「聞く力」には、観察力と想像力も求められているのだ。



シュミット元首相のインタビューの失敗談あり。
「あなたの言っていることが一言もわからない」

 ⇒ 実はシュミットさんは右の耳が不自由で聞こなかったのだった。

私は氏の右側に座ってインタビューをすることになっていたので、氏は聞き取りにくく、
何度も「あなたの言っていることがわからない」と繰り返していたのだった。
私は夢中で話しかけていたので、シュミット氏の聞こえないという、ボディランゲージで
おそらく発せられていたメッセージを捉えられなかったのだ。
まさにリッスンすることばかりに夢中になっていた私は、
「ヒア」という「聞く力」を失っていた。
インタビューには、ただ質問し、その答えを聞くというだけではない、観察力と想像力も要求されていることを
身に染みて知った経験となった。


失敗するインタビューとは

インタビューでは準備も重要だが、実際のインタビューの場面になったら、
いったんその準備で得たものをすべて捨てなくてはならない。
そして、相手の話を真剣に深く聞き、その人が何を言わんとしているのか、丸ごと抱えて、
そこで出てきた素晴らしい言葉、豊かな言葉、言葉に込められた大事なメッセージをしっかりつかむことこそが必要なのだ。
そこからよい対話が生まれてくる。


17秒の沈黙

2001年5月17日 「高倉健 素顔のメッセージ」
 ⇒ ひたすら待った。その間17秒。 

「待つこと」も「聞くこと」なのだ。
後日談になるが、番組を見てくださった高倉さんから、あの17秒の間をそのまま放送で残してくれてありがとう、というメッセージが寄せられた。
 ⇒ おお!と思ったが、生放送だから当然ですよね。
   でもだからこそこの沈黙を我慢したのは素晴らしい、なかなかできないことだと思う。


/準備した資料を捨てるとき/聞くべきことを聞く/しつこく聞く/それでも聞くべきことは聞く/額に浮かんだ汗


準備は徹底的にするが、あらかじめ想定したシナリオは捨てること。
言葉だけでなく、その人全体から発せられているメッセージをしっかりと受け止めること。
そして大事なことは、きちんとした答えを求めて、しつこくこだわること。
長い間、インタビューを続けてきて、たどり着いた結論は、このことに尽きると思っている。


第8章 問い続けること
アメリカのジャーナリズムとテッド・コペル/「言葉の力」を学ぶ/「同調圧力」のなかで/インタビューに対する「風圧」/失礼な質問/フェアなインタビュー/残り30秒での「しかし」/言葉によって問い続けていくこと


インタビューで私は多くの批判も受けてきたが、23年間<クローズアップ現代>のキャスターとしての仕事の核は、
問いを出し続けることであったように思う。
それはインタビューの相手だけでなく、視聴者への問いかけであり、そして絶えず自らへの問いかけでもあった。
言葉による伝達ではなく、「言葉による問いかけ」。
これが23年前に抱いた、キャスターとは何をする仕事かという疑問に対する、私なりの答えかも知れない。


第9章 失った信頼

 ⇒ ここは2つの不祥事についての内容。
   なぜ起こってしまったのかの深部の検討がなされていない反省の言葉がある。

「出家詐欺」報道をめぐって/問われるべきこと」/「編集」の持つ怖さ/もう一つの指摘/壊れやすい放送の自律

第10章 変わりゆく時代のなかで
海外からの視点/進まない中東和平/逆戻りする世界/

二人のゲスト
(内橋克人氏と竹中平蔵氏)

竹中さんのスタジオ出演は1999年4月1日の「退職金・企業年金が危ない〜国際会計基準 企業の苦悩」が最後となり
その2年後、竹中さんは経済財政制作担当大臣として小泉政権に入閣、2001年9月1日の「テロが経済を直撃した」では、
政府としての対応対策を語る閣僚として中継出演している。

一方、内橋さんはその後も雇用をテーマにした番組に引き続き出演している。
そのテーマからは日本の雇用環境が激しく変化し、次第に悪化していう様子が伝わってくる。
2001年10月24日 「さらば正社員、主役はパート」
2002年 1月21日 「急増、1日契約で働く若者たち」
2002年 5月14日 「会社の中で独立します〜広がる個人事業主」
2002年12月 4日 「高速を走る"過労"トラック」

賃金が下がっているだけでなく、人件費はいつの間にか調整可能なコストへと変わっていった。
激しい競争野中で安く効率よく作れる場所で生産を競い合う企業。
こうしたなかで地域経済の衰退が加速していった。
多くの人々が不安定で細切れの仕事に向き合う姿を目の当たりにして内藤さんが繰り返し口にしていたのが
「ディーセント・ワーク」という言葉だった。
 ⇒ いかん、わからん   

生きがいのある仕事、尊厳のある労働。
その大切さを熱っぽく語り、
人々にとって働く意味とは何かを問いかけ続けたのだった。

 
/派遣村の衝撃/しっぽが頭を振りまわしている/「暗いつぶやき」を求めて/東日本大震災/原発事故報道/ある医師の声/伝え続けること

終章 クローズアップ現代の23年を終えて
新しいテーマとの出会い/誰一人取り残さない/年末の降板言い渡し/危機的な日本の中で生きる若者たちに八か条/再びハルバースタムの警告を



あとがき

 post tryuthがキーワード。
 ジャーナリズムの衰退を非常に懸念おられる。


(参照リンク)  読書メータ感想文