「へんこつなんこつ」
− 私の履歴書 −
佐治敬三 日経新聞社
○ 佐谷先生
先生は弱者にことのほか目をかけられた。
それは悪童から、私のごとき肉体ならびに精神の弱者まで。
(注: 佐治さんは中学3年次に腺病質の虚弱体質のため、夏前から全休して留年した)
復学後の何時間目かのことである。
佐谷先生の授業時間に臆面もなく手をあげた私を認めて、
「休んどった佐治が手をあげとるやないか。ほかのもんは何をしとる」と言われた。
私の胸は喜びで高鳴ったのを覚えている。
果たして正しい答えができたのかどうか記憶にないが、この一言が、
大きく言えば私の人生のまたとない啓示となった。
○ 浪高高等科
河合教授の著書(「学生に与う」)に触発されて、今なお私の心の奥に生き続けているのは、
自由主義の信奉と、人生の価値「真善美聖」へのあこがれである。
○ エトヴァス ノイエス
(私の要約)
佐治さんは迷ったあげくに、増上寺の住職の助言により父親の勧める大阪大学理学部へ入った。
そこで小竹無二男先生に師事する。
その小竹先生がドイツに留学中、ノーベル賞受賞のウィーンランド教授のもとで研究に励んでおられた。その時の話しである。
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ウィーンランド博士は、毎日毎日朝夕二度、一日も欠かさず先生の研究机のそばに立ち、
「ヘル、ドクター、エトヴァス ノイエス?(何か新しいことはないか)」と尋ねかけられた。
先生は「いくら熱心でも毎日毎日新しいことがあってたまるかと思ったけれども、
だが待てよ、真理の探究に休みはない、毎日毎日が真剣勝負と思えば、
「エトヴァス ノイエス」のないわけがない。それほどの心がけで日々の研究生活を過ごすべきだ」と思い返されたという。
私もまた「エトヴァス ノイエス」のない日は、進歩なき懈怠(かいたい)の一日と定めて、常に革新を目指していきたい。
○ 山崎 隆夫 宣伝部長
当時三和銀行にあってその宣伝を推進していた彼は、奇しくも旧制神戸高商の出身、兄の同級生として親交があった。
画才に恵まれ、音楽をよくするいささかのディレッタントであった彼は高商を7年かかって卒業していた。
彼と出合ったのは朝日新聞社主催の広告賞審査の席上であった。
一目ぼれというか、引き合うものがあったというか、この人をおいてはサントリーの広告を託す人はいないと思い込んだ私は
強引に誘いの手を差しのべた。
(当時の渡辺頭取の次男が佐治さんと同窓、しかも小竹一門、ということで成功する)
⇒ 佐治さんは、人の素質を見抜いて活かして使うことにかけての才があると感じた。
○ 百楽の長
私が大学で化学に進んだいきさつについては既に述べたとおりで、ことさら医薬への思いが強かったわけではないが、
心のどこかに人を直接救える医薬への憧憬が潜んでいたのであろう。
超酒類企業・生活文化企業という将来図を描こうとしたとき、自ずと鮮明に姿を現したのが医薬への道であった。
それは化学者として果すことの出来なかった夢であったのかも知れない。
○ 燕尾服
(研究所がガンマーインターフェロンの創出に成功して、1987年スウェーデン王立アカデミー会員に選ばれた式典に出たときの
印象が面白かったので書いておく。)
各国からの招待者を含めて千人もの、それこそ各界トップの方々が、私の前後左右にキラボシのごとく、それぞれに数々の勲章を
胸に飾っていた。なるほどホワイトタイと広いいか胸のワイシャツの燕尾服は、こうして勲章を飾るためのものかと実感した。
○ 惻隠の情
(鳥井家の家訓でもあったようである。
父親の子供のときのお母さん(祖母)との会話がすごい。
祖母は、大阪天神橋の上で並んでいるこじきに何がしかの小銭を与える。その後の原風景である。)
「信次郎、後ろを向いたらあきまへんで。ご利益がなくなります。あの人らのお礼をうけたらあきまへんのや」
知られることのない布施の行為こそが尊いのであるという祖母の教えを、幼い父は身に染みて感じた。
それが父の骨肉と化したのである。
「施し」という言葉には抵抗を感じる人がある。
たしかにいかにも、一種優越感めいた傲慢さがかぎとられないわけではないが、しかし惻隠の情に発した施しは
孟子のいう仁の端ではないか。
幼い父の心にきざみつけられた惻隠の情が、長じて後の父の生涯に色濃く反映しているように思えてならない。
通称釜ケ崎の一角に父が無料診療所を開いたのは、大正十年のことであった。
それは戦後には戦争未亡人の母子寮となった。
もとより寡婦のほんの一部の方々がすくわれたにすぎないかも知れないが、その行為を、
だからといってさげすむことは許されない。
(この項目の冒頭には次のことが書かれていた。鳥井家では暮れの29日に餅つきをし、
子供達も丸める作業を手伝う。そしてそのつきたての餅を地元の川西に住む身寄りのないお年寄りに届ける。
正月を迎える人々への心づくしであった)
父は利益三分主義を唱えて、その一部は社会へお返しすることを信条とした生涯を過ごした。
父の陰徳の対象は時にたわいのないものであったりしたが、それがかえって父の真情を示すものであったのだと
今になって思う。
父は仲居さんや芸妓さんなどにはびっくりするほどやさしく、人のために尽くす彼女たちに惜しげもなく財布をはたいていた。
社会への貢献などというと偉そうに聞こえるけれども、もともとはこうした一人の人間の真情から発するべきものではないか。
かつての個人が今は企業という無機質な存在に変わったことが、昨今のメセナをうさんくさくしていると思えてならない。
サントリーの社会への恩返しも、できれば父のように一人の人間のやむにやまれぬ真情から出た活動としたいと思い続けている。
私が「はじめに志ありき」というのはそんな意味である。
サントリーの社会貢献活動はむしろ地味なものが多い。最初の財団が戦前、昭和16年の邦寿会という社会福祉法人であったことからも
想像されるように、いわゆるきらびやかな文化とは無縁のところで始まっている。
○ サントリー美術館
「生活の中の美」というコンセプトで成功
モスクワのプーシキン美術館の展覧会では、「かんざし」が女性の人気を集めていた。
○ 生活文化企業
サントリーの将来像を生活文化企業と位置付けたのは、昭和55年。
生活文化という言葉は決して熟した言葉になっていなかったが、産業の未来像を考えた時、生産一辺倒では社会が成り立つわけがないと考えた。
企業の存立は、社会に提供する財が社会から尊重されることによって保証される。
社会がぞの財を、生活をより豊かにすることができるとした時、その財を生活文化財、その財を生産する企業を生活文化企業と私は呼びたいのである。