「雀鬼と陽明−桜井章一に学ぶ心の鍛え方」
三五館 林田 明夫
これも香川県警のKさんが貸してくださった本である。
Kさんと鍵山先生を引き合わせてくれたのが雀鬼桜井さんであった。
しかし、Kさんは麻雀はやらず、桜井さんとの関係がわからなかった。
このお話を聞くと、機動隊の隊長時代の部下の結婚式のお祝いであった。
部下が桜井さんを慕っており、その部下のお祝いのために桜井さんに会いに行き
色紙にメッセージを書いてもらったというのだ。
その時の親切な桜井さんの態度にとても感銘を受けたとのこと。
それにしてもそこまでやるかということで驚いた。
そして鍵山先生を知ることとなり、桜井さんのことを書いた林田さんとも知り合うのである。
まさに縁尋機妙である。
この本は今年の3月29日に林田さんとお会いしてサインをもらったばっかりのものであった。
最初はうさんくさそうに読み始めたが、そうではなかった。
陽明学とは安岡正篤さんとつながるのであることを知った。
陽明学の王陽明と桜井章一さんを重ねているのである。
風貌といい考え方といい生き方といい、まさに生まれ変わりのようである。
王陽明の人間学は、文人(学者で役人)でありながらも、その有能さを買われて武人として
血なまぐさい戦場に身を置くという、百死千難の中で味わった苦悩が見事に結晶したものなのである。
陽明学は、朱子学という当時ポピュラーだった学問に対するアンチテーゼという形で
打ち出されてきた。なぜかといえば、国で奨励した朱子学が記憶のための、学識者のための学問に
なってしまっていた。単なる受験のための学問、出世のための学問になってしまっていたからである。
陽明学とは人間力をつけるための、よりよく生きるための学問として登場する。
「人格向上につながらない麻雀は、雀鬼会の麻雀ではない」と桜井章一は主張している。
私が桜井さんを身近に感じたのは、次男が幼児の頃に重度の知能障害に陥り、父親として壮絶な苦労を
重ねられたことがあったからである。残念ながらこの部分の記述はほとんどなかった。
いくら麻雀の裏プロ時代の命がけの麻雀から掴み取った人生哲学であろうが、家族の大きな問題解決の
苦労がなければ人生哲学は完成しないと思っている。
片手落ちであろう。おそらく桜井さんが多くを語らなかったからだと推察する。
○ 王陽明 「知行合一」
「知行合一」は「先知後行」説(朱子学)の間違いを正した。
「先知後行」とは、「まず知識を得て、つぎに行動に移す」、つまり行動が<理>にふさわしいものに
なるためには、まず<理>を知らねばならないという考え方。
「知行合一」の考え方 「伝習録」より
今の人の学問は、<知>と<行>を分けて二つのものとします。
ですから思いが心に生じて、それが邪悪な思いであっても、未だ行動に現していないからと、その思いを
禁止しようとしません。
わたしが「知行合一」を説くのは、このような考え方を否定して、人の心に思いが生じたら、
それはつまり行ったことなのだ、ということをよく理解して欲しいからです。
思いが生じたとき、そこに不幸があれば、すぐにこの不善の思いを克服し、徹底的にその不善の思いが
心の内に残らないようにすることが大事なのです。
(ブックカバーでの紹介文)
桜井さんは、命がけで戦う勝負の日々のなか、勝つことのむなしさを知るとともに、
麻雀の本質(流れ)と一体となる「牌人合一」の境地を体得した。
思うだけで、牌を手足のごとく自由に操るという裏技不要の前人未到の達人と言われている。
地位はいらない、お金におぼれないなどという私欲をなくす工夫は、
感性を磨き、「揺れない心」を育むことの大切さを主張する「雀鬼流麻雀道」へと発展している。
【雀鬼会HP】
http://www.jankiryu.com/
桜井さんの言葉
「みんな病気の麻雀を打っているんですよ」
「今は親も学校も損得しか教えない。挙句、子供は安定を求めて大企業へ走る。
安定を欲しがるのは早く歳をとっている証拠。歳とったその先は<死に体>だ。
<死に体>に<私>が負けるわけがない。
今の子は、道楽だ、欲だ、といって麻雀をやらない。
(そのくせ)夢だ、希望だ、と言って大企業へ行く。
だけど大企業の根本は利欲だろう?
⇒ここは決定的な誤解だ。非常に残念な言葉である。
会社は何のためにあるか?それを問い続けながらよい会社になることを志向している人が
たくさんいるのである。わかって欲しい。
なぜ気づかない
僕は麻雀から夢も希望も挫折も習った。
だから麻雀で何かを皆に返さなくちゃ、とこの雀荘をやっている。
⇒この考え方は大いに共感する。同じ思いである。
イイ人間関係の中で<俺たちは男である>ってことを見つめなおそう、と」
ということで問題児を雀荘スタッフとして採用している。
そしてその若者が変わっていくのである。
◎ 麻雀は数じゃない。絵です
牌はなんて美しいのだろう、
麻雀も芸術と一緒で感情で看るんですよ。
⇒ いい言葉だと思う。
◎ 揺れない心
周りの人々に迷惑をかけないこと
麻雀に限らず普段の生活の中においても、私よりも公を優先させる心を持ち、
人間性を磨くことが、おのずと麻雀に生きてくるのだ。
ただ勝てばよいといった気持ちでは、ずるさやテクニックに陥り、本当の雀力は育たない。
雀鬼流麻雀のマナーやルールの厳しさはよく知られるところ。
「動揺しない心」「平常心」 桜井が色紙に好んで書く言葉だ。
揺れない心と厳しいマナーの間には密接な関係があった。
王陽明の考え方が通じる
× 告子 単に心を動揺させないことだけに努力した
○ 孟子 心が本来は動揺するものでないという観点から、心の本体はもともと不動のものである、
ただ行為が義に合わないことがあると、そのために動揺してしまう
孟子は、こころが動揺するかしないかは問題にしないで、ただ<義を集積する>ことだけを説いた。
その人の行為がすべて義であれば、心は自然に動揺することはない、とした。
つまり、正しい行為、義を積み重ねることで、不動心を養えると説いている。
桜井さんが語るところの「自分の内面的なケジメ」をつけること、「公を優先させる気持ちを
持ち、人間性を磨くこと」というのが、「義を集積する」ことに当たるのである。
● 麻雀には、人間の意志とは関係なく、<麻雀の流れ>というものがある。
その流れを見えなくしているのは人間の<欲>だ。
○ 人のせいにしない
雀鬼会の教えでは、良いことが起きたときは、外因に対して感謝し、悪いことが起きたときには
内因にして反省しろと言っています。そうすると人のせいにするということがなくなってきます。
失敗も敗北も人のせいにしないで、謙虚に、己の力不足とし、自分で自分のけつをふけるものこそが、
強者なのです。
◎ 迷いがあるからこそ悟りがある
「修証不二(しゅうしょうふじ)」という道元禅師の言葉がある。
修行は迷いがあるからこそ、悟るがある。
つまりは、修行と迷いと悟りとは一体である、おいうことだ。
もっといえば、悟ったからといって、修行をやめるようでは、真の「修証不二」の境地を理解していない、
真の悟りではない、ということがいえる。
「悟後の修行」、悟った後の修行が大事なのだ、という言葉があるくらいである。
陽明学では、「事上磨錬」を主張している。
勉強や座禅などの自己修行の時間だけではなく、日常生活や仕事の場で、あるいはさまざまなトラブルが
起きたそのなかで、心を鍛え自分を変革する工夫をしなさい、と言っているのだ。
◎ 「立志説」
陽明は44歳のときに、弟の守文のために、「弟に示す立志説」という文章を作っている。
「志が立てば、学問は半分できたも同然です」と力説した。
また次のようにも語っている。(伝習録)
「志を固く保持すれば、気を養うことが自然にでき、また気を損なうことがなければ、
志をよく保持できるというように、両者は不可分なものなのです」
朱子は「志」と「気」を別個のものとするが、陽明は、一体であると見るのだ。
志が立てば、気がみなぎる、気を荒らすことがなければ、志を保つことができると
いうものである。
志が立てば、自然にやる気が出る、というわけだ。
陽明は、彼の講義を聴いている門人たちに、「講学」の間の、授業中の心構えについて
「諸君は、ここにあって勉強している間は、努めて必ず聖人になるんだという志を立てなければ
ならないのです。そして一時一刻も刻苦緊張の中にあることが必要で、それができれば、私の講和を
聞いても、一句一句に力が湧いてくることでしょう。
⇒ 聖人になる という志はちょっと違和感がある。
世のため社会のために、どのようにして役に立ちたいかということが志ではないだろうか。
企業で言えば、企業理念である。というのが私の理解である。
◎ 自分のむだな要素を省いていけば、相手のことが見えてくる
孫子の言葉に「彼を知らずして己を知らば一勝一負する」がある。
たまたま相手についての情報が手に入らなかった。そんな場合でも自分のことさえどれくらいの
能力を持っているかということを自覚していれば半分くらいは、負けない、といった教えである。
⇒自分の能力を自覚することはすごく難しいのではないだろうか?
桜井は、
「むだな動きや思考をなくして、自分が早くなれば相手のことが見えるわけです。
みんなはそうじゃなくて、相手のことを先に読もうとするから、読めないわけです。
自分をきれいに掃除しておけば、むだな要素をはぶいていけば、相手のことが見えてくるわけです。
人のことを分かろう分かろうとしたら、いつまでも見えてこないんです。
自分のことをきちんとわかるようにして、初めて人のことが分かるんです。
⇒この言葉にはハッとさせられる。
自覚、自分の周りをきれいにしておく 大事なことだと思う。
◎ 重度の障害児
次男の障害のことはあまり書かれていないが、最後の方に3ページだけ記載箇所がある。
もっと具体的に知りたかったが詳しくは分からない。
当然だろう。
2歳くらいのときに原因不明の熱に冒され、知恵遅れとなったようである。
桜井さんの言葉だけ書いておく。
「1週間や1ヶ月で解決する問題ならいいけど、一生もしかしたら……、という荷物を
背負い込むとしますね。
その一生の荷物のために、人間というのは一緒になってつぶれていくんです。
考えすぎたり悩んだりすると、たいていそうなる人が多いわけです。
<俺には、そういうことは絶対に出来ない。一生の荷物をかつぐのは俺しかいないんだけど、
つぶれちゃいけないんだ。絶対に流されないぞ。悩まないぞ、苦しまないぞ>
そう思ったんです」
「私は普通の家庭の中に、彼がいるんだって見方をしているんです。
障害者だ、障害者だなんて(神経質になっていたら)自然に自分も障害者になっちゃんうですよ。
そこに女房たちは負けていくわけです。
障害児っていうのは、育てりゃ育てるで心配が増えるだけなんですね。
普通の子もそうかも知れないけれど、世間的に言えば、何の見返りもないわけでしょ。
だから面白いよ。寝ないで一生懸命働いて、育ててやったって、何も見返りがないんだから。
…
だから無なんです。無をどれだけ継続できるかという発想になってくるんです。
…
無のものに対してどこまでがんばれるかということをやり通せば、たいていの人間は
すべて有を追っているんだから、そうすると本当の力というものが分かると思うんです。
息子が障害を背負ったことが分かったときに決めたんですよ。
こういう子は、どうせよそに生まれるんだろうから、私のところに生まれてきてよかった
じゃないか。よそに生まれるより、私の家に生まれたほうが良かったよな、って。
だから悩んだりしないんです。
それはそれは問題をいっぱい起こしますよ。
もう困ったことがいっぱいあるんですが、だけどどうってことないですよ。
女房なんか負けそうになりますけど、障害くらいに負けてられないですよ。
彼には、言葉は通じないし、腕力がある。
ある日父親と喧嘩をしても勝てないことを知った彼は、以来暴力を振るうことはなくなったという。
家庭にあっても桜井に安らぐ暇もない。
そんななかでも、12年間毎週土曜日の早朝野球を休むことがなかったという。
人工透析のハンデを背負った「牌の音」のスタッフのためにである。
裏麻雀の世界のことは、漫画で見るような感触であった。
でも「ふーん」といったものであまり残らない。
そんな虚無感を桜井さん自身が感じたのだろう。
生き埋めにされそうになったときは万事休すかと思ったが、桜井さんの友人の機転で
助かったところが印象に残っている。
以 上