「子どもが減って何が悪いか!」
赤川 学 ちくま新書
「これが答えだ!少子化問題」を読んだのその前作を読んでみることとした。
内容はことんど同じようなので、ショートカットして最後の章とあとがきだけを読んだがそれで十分によくわかった。
年金問題についてもしっかり書いてくれていた。
(P199)年金における世代間公平をどう確保するか
こうしたなか注目されているのが、1999年からスウェーデンで採用されている
みなし掛金建ての年金制度である。
本書では一貫してスウェーデン信仰を戒めてきた筆者だが、たしかにこの制度は悪くない(苦笑)。
西沢和彦『年金大改革』(日経新聞社、2003年)をもとに、そのしくみをまとめてみよう。
@ 所得比例年金に一元化。最低保証額に満たない場合、国庫負担金で保障する。
A 拠出(掛金)建ての賦課方式。保険料拠出を年収の18.5%で固定。
平均寿命の伸び・経済成長の変動を給付で調整する。
B 18.5%のうち16.0%は個人別勘定を設け記録する。
各年の年間所得にみなし運用利回り(=一人当たり賃金上昇率)をかけ、
16.0%の保険料拠出を毎年(概念上)積み立てる。
残り2.5%は、実際に積み立てられ、個人別に運用される。
あくまで「概念上の拠出」であり、実際には賦課方式で運営されている。
C 61歳時点で積み立てた総額を、平均余命で割った値が年金給付額となる。
受給年齢を引き延ばすことも可能。
西沢はスウェーデン方式のメリットを
(1)負担と給付の関係が明確。積立総額を平均余命で割るので高齢化にも対応可。
(2)賦課方式から積立方式に移行した場合に発生する「二重の負担」を回避できる。
(3)負担をめぐる世代間公平も世代内公平も問題にならない。
(4)早期退職誘因も貯蓄率低下もない。
ことに求めている。
D 自動財政収支均衡法
「みなし運用利回り」としては一人あたり賃金上昇率が適用されているが、これだと少子化の進行や雇用情勢の
悪化に伴い働く人が減ると、給付財源は乏しくなる。
そこで毎年年金財政をチェックして、年金債務が年金資産(毎年の年金保険料+積立金)を上回るときには、
みなし運用利回りを自動的に下げるわけである。
この結果、制度は長期的に健全に維持できるとされる。
⇒ 非常によくできていると私も思う。
毎年変動してしまうがそれはそれで我慢せざると得ないだろう。
個人の損得を抜きにして、
少子化、経済停滞のツケを先送りしないためにもこの方式を日本でも採用すべきだと
誰しも思えるのではないだろうか。
(P200)
少子化のデメリットは、
(1)経済成長の鈍化
(2)年金制度の不安定化
にあった。
⇒ 納得
スウェーデン方式を取り入れれば、経済成長の鈍化は、自動財政収支均衡法によって対処されるから、制度の健全性は維持される。
ただ少子化や低成長によってみなし運用利回りが低下すれば、年金受給額は減る。
つまり現役時に積み立てた額を、老後に平均余命まで生きればすべて返してもらえることが確定しているわけではない。
完全な積立方式や民間貯金のようなものを連想していると、少しガッカリすることになるかも知れない。
しかしみなし運用利回りは、毎年、すべての世代に適用されるものだから、少子化がもたらすデメリット(低成長・人口構成の変動)を、
全世代で分担していることになるのである。
その意味では、世代間不公平はない。
みなし運用利回りの低下を、特定の世代が子どもを産まず、少子化が進んでしまったからだと非難することは
可能かも知れないが、そうした発想そのものを拒否すべきなのである。
「少子化がもたらす負担を、社会全体で共有する」という発想からいえば、この制度は理想的である。
ただしかなり長期的にみれば、高成長が長く続いた時代の人は生涯年金受給額が多く、低成長が長く続いた時代の人の受給額は少なくなる。
よって所得代替率は、経済成長の変動による影響を受ける。
豊かな時代を長く生きた人は相対的に多くの給付を受け、相対的に貧しい時代を生きた人の給付は少なくなる。
所得代替率を常に一定に保つことを世代間公平の基準とするならば、これは新たな世代間不公平を容認しかねない。
しかしそれは、今の場合あまり関係がない。
賦課方式のもとでの世代間公平は、単年度における、現役世代の負担と高齢世代の給付がどのような割合であるべきかについて
議論しているからである。異なる時代、例えば19世紀を生きた時代と、21世紀を生きた時代の公平を比較しているわけではない。
⇒賦課方式とは恥ずかしながら知らなかった。愕然である。
厚労省がマンガで説明してくれている
(P202)
最近、民主党は、スウェーデン方式にかなり近い所得比例年金精度を提言している。
年金改革論議は現在も継続中だが、
「自分は、与党案ならいくらもらえる、民主党案ならいくらになる」という差引勘定は、有意義とは言えない。
たとえば、すでに年金を受給している世代、これから年金を受け取ろうとしている世代が、
「受給額が減るから反対」といった形で、数に任せて自分の世代にだけ都合のよい理屈と政策を振り回すならば、
現在でも重い年金負担にあえぎながら、将来的にも十分な給付を受ける見込みが少ない世代の不満は、頂点に達するだろう。
ひょっとすれば、「高齢世代をまとめて姥捨山へ送り込んでしまえばええんや」という過激思想が出てこないとも
限らない。
そうならないためにも、あくまで選択の自由を保護し、少子化がもたらす負担を公平に分配する制度設計という観点から、
制度の是々非々を評価すべきなのである。
それにしても厚労省は、今回の年金改革における負担と給付を計算するにあたって、
出生率が2050年には1.39まで回復し、2100年には1.73まで上昇すると予測していたらしい
(高山憲之『信頼と安心の年金改革』東洋経済新報社、2004年)。
およそありえない想定である。
⇒ たぶんそうしなければ大変な数字が露呈されてしまうので取りつくろったのであろう
むろん厚労省は、男女共同参画的な少子化対策を行えば出生率は回復すると考えているのだろう。
⇒ いや、頭のいい官僚が知らないはずはない。あえてそうしているのだ、せざるを得なかったと思う。
それが夢想に過ぎないことは、本論で繰り返し論じてきた。
(P208)
本書の文脈で最終的に問題になるのは、子育て支援や両立支援が格差原理にかなうかどうかであろう。
子育て支援や両立支援が正当化されるかどうかは、そこで支援の対象として想定されている
「男も、女も。仕事も子育ても」という男女共同参画の夫婦が、
「社会の最も不遇な人」と呼べるかどうかにかかっている。
本格的なデータ分析を行うには、紙幅が足りない。
だがデータ分析に依拠するまでもなく、答えは明らかだ。
自らのDNAを残すためであれ、愛玩するためであれ、
自らの私的効用のために子どもを産んだ人たちが、それを持たない人たちよりも恵まれていないはずはない、
とあえて断言しておく。
格差原理が、子育て支援や両立支援を正当化するとは到底思えない。
⇒筆者の強い思いである。
それが結びの言葉につながる。」
(P211)
子ども数は減ってもかまわない。
そのかわり、ライフスタイルの多様性が真の意味で確保される「選択の自由」と「負担の分配」に
基づいた制度が設計されていれば、それでよいのだ。
GDPで測られるような経済成長や豊かさが仮に減少したとしても、
画一的なライフスタイルをほとんど強要され、不公平な制度を続けるよりは、
少子化がもたらす負担を共有しながら、誰もが自ら望む生と性を謳歌できる社会のほうが、
はるかにましだ。
そのような社会なら、住んでみても悪くはない。
(あとがきでは執筆に至った経緯を述べている)
(P215)
日本社会学会で本書の一部を報告したのが2002年11月である。
このときある人から、
「男女共同参画を推進する実践家の人たちも、少子化対策としての位置づけには疑問を持っている。
ただ男女平等やジェンダーという言葉を出すだけで反発をくらう政治的状況があるから、我慢している。
そういう人たちに、あなたの発言がどのように感じられるかわかっているのか」
と手厳しく批判された。
今後アンチ・フェミニズムの保守派とみなすという趣旨のことまで言われた。
私はいまでも、この批判には納得していない。
男女共同参画は、少子化対策として効果があろうがなかろうと、必要なことだ。
単にそう主張すればよい。
それをしないフェミニズムは欺瞞であると思うからだ。
ただ、「男女共同参画は少子化を妨げない」とする私のデータ分析を、
そこだけ恣意的に切り取られて、
「だから男女共同参画は必要ない」という主張の根拠として用いられることだけは避けたかった。
だから本書を、執筆し出版することには何度も躊躇が伴った。
気持ちに変化が生じてきたのは、最近のことである。
経験的な実証に関しても理念的価値観に関しても、
「間違っていることは間違っている。正しいことは正しい」
と主張するのが、学問に携わる者の努めだと強く思うようになったからだ。
2004年12月
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480062116/