「マッサンとリタ」 

オリーヴ・チェックランド 和気洋子 訳   NHK出版


     


NHKの朝ドラ「マッサン」は楽しく見ている。

家内はドラマの前に本かマンガでこの話を読んだことがあると言っていたが確認できなかった模様。
そして新刊となった話題本を図書館予約でゲット。

さっそく読んでみると、ちょっとTVの筋書きとは違うなというところもあった。

これからのドラマの進行が楽しみである。
第二次世界大戦で苦労するリタの姿をどのように描くのかがちょっと不安でもある。

思えばニッカウィスキーは「スーパーニッカ」を好きだったことを覚えている。
ウィスキーがうまい!と思ったのは、会社へ入って200時間の残業が続いていた役所対応のときに
夜おそく一息ついて口にした一杯がどれほどうまかったことか。
そのおいしさを思い出していた。

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政孝は竹鶴家の三男。一家の長兄は早稲田大学を卒業後、日本を離れてマレー半島に渡りゴム事業に携わっていた。
次兄は九州大学を出た後、やがて北海道炭鉱汽船に勤め札幌で暮らしていた。
このため、三男ながら政孝が家の跡取りとされていた。

政孝は竹原の隣町にある忠海中学に入学。いつも熱心に勉学に取り組むまじめな生徒だった。
中学には学生寮がいくつかあり、最上級生になった竹鶴は、そのうちの一つで寮長に任じられた。
この時期同じ寮の後輩に、のちに総理大臣となる池田勇人がおり二人の交遊関係は
途切れることなく、首相になった池田は竹鶴に大いに力を貸すことになる。

摂津酒造を去ってから数か月して寿屋に入社が決まるが、
被雇用者である竹鶴が、雇用主である鳥井に対して4つの条件を提示している。

@ ウイスキー製造は竹鶴に一任する
A 必要な資金は、すべて鳥井信治郎が用意する
B 契約期間は10年
C 年間給与は4000円。すなわち、イギリスからスコットランド蒸留技師を招い
た場合に支払われるもの同額とする。

⇒こういう条件だったので、山崎でのウィスキー製造が軌道にのった後は
 横浜ビール工場長に命じているようである。

食いつなぎのところは以下の記述があった

政孝は1922年に摂津酒造を辞めた後、ローリング牧師のはからいであろうか桃山中学校の化学教師となっていた。


ほたるの光のメロディーについては、以下の感動的記述がある。

竹鶴はこうしたニッカの充実ぶりをその目で見た後、1979年8月29日この世を去った。
自らの事業に思い残すことはなかったに違いない。
余市蒸留所を訪れる人がその中庭に立ち、グレーの石壁を見渡し、独特の形をした
赤い屋根を連ねる
モルト・ハウスを眺める時、決意とロマンを胸に秘めていた若き竹鶴の魂がきっとそこに感じられるだろう。
ちょうど、「ほたるの光」の曲名で日本人に歌われるロバート・バーンズの詩
「auld lang syne (なつかしい昔)」が過ぎ去った日々を思い出させるように。


○小さいほうがよいこともある
 スコットランドの小さな蒸留所での実り多い実習体験を通じて、竹鶴は、ウイスキー造りにおいては、
「小さいほうがよいこともある」という考え方を学んだ。
帰国後のウィスキー造りに関わる長い過程を見る時、ウィスキー製造の規模が大きくなりすぎてしまう
ことに対する彼の懸念を読み取ることができる。
戦後の20年、確かにニッカは成長し、大きな反映を遂げたが、竹鶴は質を犠牲にして量をとるような
ことを決して喜びはしなかった。
こうした彼の強い職人気質は、同社の広報、販売担当者たちを常に悩ませたに違いない。


リサさんについてもTVとはちょっと違う感じ。

そもそもリサのご両親ともに医者。
お父さんは竹鶴と会う前に亡くなっておりカウン未亡人は
長女リサ、4つ下の妹のエラ、その3歳下のルーシーそして弟のラムザーの4人姉弟
を抱えて大きな屋敷でも経済窮乏の日々。
そこにエラが政孝を連れてきて下宿的に暮らしていたようである。
リサは自立を目指し、ハンサムな政孝のプロポーズを受け入れて、帰国前の10か月前に結婚していた。
1920年1月8日、政孝とリタはグラスゴーのカルトン登記所で夫婦となったことを宣誓した。
この結婚は、通常の協会結婚と異なる特例措置とされ、これを認める証書には、ラナークシャー州長官代理の
署名があった。立ち会ったのは、リサの16歳の妹のルーシーと、友人のジェシー。
グラスゴー駅のホテルで結婚を祝う宴が持たれ、王立工科大のウィルソン教授も列席した。
ともに21歳を超えたリサと政孝には、結婚に際しての両親の許可は必要でなく、また2人の立会人も
16歳以上という法律上の条件を満たしていた。