「道は無限にある」
松下 幸之助 PHP文庫
1月に私が社外講師として初めてやってみた研修でお会いした若手の方から教えていただきました。
>座右の銘にもある、松下幸之助氏の「道は無限にある」です。
>この本を読み、仕事に対する取り組みが変わったように思います。
>残念ながら、まだ「自分のために」仕事をしていますが・・・。
28歳の方から松下幸之助の本を読んで考え方が変わり、そのタイトルが
座右の銘になっていると聞いて驚きました。
早速ネットで注文し(最近はアマゾンではなく楽天ブックスになっています。)、取り寄せました。
文庫本で495円というのはとてもいいことだと思いました。
昭和50年に書かれたものでした。
この当時はオイルショックで、非常に厳しい時代を迎えており、まさに今と重なる気がします。
松下さんの懸念がそのまま今の混迷につながっているなという実感が湧きます。
キーワードは社会貢献、志、愛国心、教育といったところで、私の今の思いとも重なります。
ただ私は松下さんのようには自分に厳しく清貧の思いは持っていませんが…。
でもモットーや考え方はよく似ていると思いました。
ただ、仕事に命をかけて臨んでいるか、という問いにはダメだと思いました。
今日でおしまいになっても、だからその時の最善を尽くすという思いは持っていますが。
それは命をかけていることとは違うと思います。
今のこの心境になるには50歳を超えてからでした。
若い自分には、耳では聞いてもしっかり響いてはいなかっただろうと思います。
それだけに28歳の青年がこの本を読んで感動を受けたことは素晴らしいと思いました。
今の迷走政府にそのまま見せてやりたい一節
◎ 価値ある仕事を − 自分の働きに意義を
総理大臣は、国民に「あなたが正当な方法で50万円儲けようと100万円儲けようと、それは自由です。
けれども、100万円儲けたらその百万円を全部自分のものとしてはいけません。
たとえば8割は社会へ還元しないといけません。そうすれば、他のやはり100万円儲けた人からも
80万円の金が社会へ還元され、それが回り回ってあなたに入ってきます。
結局それで百万円になるのです」というように絶えず説かねばいけないと思います。
そうすると、そうだなとわかって国民がさらに勤勉になってくるし、自分の働きに意義を感じることもできるわけです。
そうして、自分の働きは自分のものにあらず、広く他に均てんしているのだ、同時に他の働きは自分に
均てんしているのだ、だから互いに感謝しあわなければいけない、と、こうなるでしょう。
そういうところに、真の平和が国民の間に出てくるわけです。
ところが、いまは権利だけを教えているから、自己の権利を主張することしか習わず、互いに角突き合わすような
姿が社会のあちこちに起こってくるわけです。
すべての人が自力更生で
● 政府の金はどこから
もっと日本人は経営の上にも、また勤労の上にも、働きを合理化して、より多くの所得、収益を上げるように
しなければいけない。収入をもっと増やさないといけない。そうしなければ政府としては資金が不足して何もできない。
ところが政府はどう言うかというと、大企業でも中小企業でも行き詰るところは助けましょう、農村も漁村も助けましょう、
社会保障もいたしましょう、みんないたしましょうばかりです。そんなことはできません、
とはほとんど言いません。何でもやりますというのです。
しかし、そのお金はどこから来るかというと、われわれ国民が働いて得る収入から、税金として納めるわけです。
そうすると、われわれの働きがだんだん少なくなったら政府は何もできなくなります。ところが政府は何でも
いたしましょうというので、われわれ国民は易きにつきやすいものですから、政府がなんとかしてくれるだろうと、
すぐに政府をたよりにするのです。たよってはならないところを、頼りにするわけです。
これはどうも私にはわからないところです。
もしそんなことをいう政府自体もおかしいと思います。今かりに私が総理大臣になったとしたならば、
「国民のみなさんが働かなければ政府は何もできません。みなさんが働いて、儲けてくださるから、その税金で
助けるものは助け、なすべきことをいたします。道路もつけましょう。けれどもみなさんが働いてくださらなかったら、
政府は金のなる木があるわけでもないから何もできません。もっとしっかり働いてください」
とでもいいたいところです。
ところが政府はそれを少しも言いません。もっと働けとは言わないのです。
何とかします、何とかお助けしましょう、社会保障を増やしましょう、とばかり言います。すると大きな会社も
小さい会社もみんな政府に金を借りにいきます。これでは日本はうまくいかないと思います。
● 進言の仕方が大切
せっかくいい軍略を持ちながら、大将がそれを用いなかったから、大将が暗愚だと言えばその通りです。
けれども、その説明も軍略以上に当を得なければならないと思います。
「私は誠心誠意の男です」と言うだけでは、まだ満点とは言えないのです。
用いさせるにはどうしたらいいかということは、これは軍略と同じだけの価値があることだと思うのです。
こういうことがわかっていないことには本当に立派な軍師にはなれません。
☆ 豊かな精神生活を
欧州での交渉のときの話が印象的だった。
まったく歩み寄りがなく、机を叩き合うほどの荒れた交渉だったが、その昼休みに大きな科学館で気分転換。
そのときに原子の模型を見て、以下のような感動を得た。
われわれが日頃鉄の塊を見ていると、これは動いてない死んだものだ、みずから動いていはしない、と思いがちです。
けれども、その模型で見ると、その鉄の中では何十億分の一という原子でしょうが、それが間断なく動いているのです。
科学が進歩してくると、そういうことも研究され、お互いが知ることもできるわけです。
また、アポロ11号が月へ行くというようなことも頭に浮かんで、私は神わざということばがあるが、
ほとんど神わざのような成果を人間は生み出しているのだなということをつくづく考えたのです。
その感想を昼からのテーブルで話したところ交渉がすんなりできたということ。
原子の模型をみて、松下さんのように感じることができるというのが素晴らしいことだと思う。
その午後の冒頭の挨拶を抜き出す。
今日、私はこういうところを見てきた。原子の模型を見ていたく感銘をした。
そういうことまで人間の力でわかってきたのだ。
また一方、アポロ11号もやがて月に出発するということだ。
それほど科学は進歩しているにもかかわらず、人間と人間の関係は決してそれほどに進歩していない。
いまだにお互いに不信感を持って憎しみあってみたり、ケンカしてみたり、世界いたるところで闘争とか
戦争のようなことをやっている。
また平和な街にあっても内心は醜い争いをやっている。
どうして人間と人間との間は進歩しないのだろうか。
人間と人間との間ににおいても、もっとお互いを信じるというか、相手のあやまちを責めるだけでなく、
相手のあやまちに同情して、お互いが共存共栄していくことに努力しなくてはならないと思う。
科学は進歩するが人間の心の進歩、精神の進歩がないということは、むしろ大きな不幸が起こってくるかも
わからない。核をもって殺し合いするようなことも起こってくる。
現に、わが国は原子爆弾を落とされ、非常な災害があった
◎ 生活に楽しみをもって
物事が非常に進歩している反面、今日われわれが本当の意味の幸福感にひたっているかというと、
必ずしも多くの人々が今日の時代を喜び、そういう進歩を喜び、人生を楽しみ感謝しているとは限りません。
たとえば10年前に万年筆があれば便利だから、せめて1本だけでも欲しいと考えていた人が、
今日では万年筆を2本持っているというような状態になています。万年筆以外でも、それに準ずるような
状態に生活向上してきています。それでは、その人は感謝しているかというと、必ずしもそうではありません。
こんなバカな社会はない、けしからん世の中だという顔をしています。
そのように、10年前はせめて万年筆1本あったならばといって、それに非常な喜びと期待をかけて、
やっとそれが得られたら、今度はもっと強い不満が生まれてくるというような傾向が、今日の社会には
あろうかと思うのです、これが非常に問題だと思うのです。
⇒ マズローの5段階欲求節では一番下の物欲が満たされただけのことなので、これは仕方ないことなのです。
当たり前なのです。
私どもは、生活の上に、精神の上に、物心一如の繁栄が約束されています。
神さまがわれわれに対して、「こういうように生活を向上させるのはけしからん」と言ってお叱りには
ならないと思うのです。昨日より今日、今日より明日への生活の向上、それはお喜びになる、それは結構だと
神さまは思ってくださると思うのです。
ですからわれわれは、いくらでもお互いの協力と努力によって、一歩一歩生活なり、その他環境なり、すべてを
よりよくしていく。それは限りがないものだと私は思うです。
…
その繁栄を切り開いていくのがわれわれの楽しみである。
そういう生活の楽しみに、人間というものの味わいがあるものではないかというような感じがします。
↓ すぐここにつづく
● 価値判断と幸福感
しかし、最近の新聞には、殺人とか、自動車の衝突で死んだとか、殺風景な記事が始終のっています。
非常に楽しい1日をこのグループは過ごしたとか、こういう和やかな姿があったとかいうような記事は
ほとんど載っていません。あってもちょっとしか載っていません。反対に神経のとがるような記事は非常に
たくさんあります。そういうような状態で、限りなく進歩していく過程を楽しみ、喜び、それを感謝するという
姿において動いていくのではなく、それに対して不平不満をぶちまけるような状態において動いていくということは
私は非常にもったいないことではないかという感じがするのです。
(猫に小判の例)
結局、価値判断が正当にできるかできないかによって、(他のところで金ではなく銅と見てしまうことなども言及あり)
その幸福感の認識が左右されると思うのです。これは非常に大事なことだと思います。
これは喜ぶべきこと、うれしいことであるということが認識できないことは、これは非常に寂しいことだと思うのです。
同時にこれは非常に貧困なことだと思います。
人間が、過去何十万年、将来何十万年を生き抜くとして、その一コマ一コマを楽しく暮らしていく、
その一コマ一コマをよりよく認識して暮らしていく、ということにお互いもっと理解し協力しあう、教えあうという
ことになれば、人類は限りなく発展していくという姿において、つねに喜びをもってその過程をふんでいくことが
できるのではないでしょうか。
⇒ 30年以上も前の嘆きですが、今でも全く同じ状態のままといわざるを得ません。
▲ 金と銅を間違えては
今日ではややもすると、お互い日本人がそのすぐれたものを忘れがちになっているのではないでしょうか。
みずから金を持ちながら、それを銅を見誤っているのではないでしょうか。金を金として認識することが大切です。
われわれは金である。しからば、金であれば、金にふさわしい活動をし、考えを持つ、そういうことが必要ではないかと思うのです。
◎ 働くとは
給料をもらうということは、最高の目的ではないと思います。働くことの最高の目的は、もっと他にあるからです。
人間としての使命、またさらに具体的には産業人としての使命、さらに具体的には社員としての使命、そういうものを
よりよく遂行することによって社会の繁栄に貢献することもできるし、また自分自身の繁栄もそこに約束されます。
その約束されるところのひとつとして、給料というものがそもに許されているわけです。
給料をもらわななければ生活していくこともできないし、尊い使命を果たしていくこともできない。
食べなければ生きていくことさえできない。こういうことになるのです。
それは会社としても同じことなのです。社会から適正な利益を頂戴することはお願いするが、その利益は無意味に
使うわけではありません。その半分以上は税金、配当などの形で社会に還元しています。
そして残りは、よりよき再生産のための資金として使っていくのです。
その一部は従業員の生活の向上へ回す、一部は整備へも回す、というわけです。
そうして、そのように利益が生かされていくところから、お互いの社会生活は全体として、国民全体、社会全体と
して向上していく。こういうことのために、会社は大きな役割を持っている、と解釈できるわけです。
だから会社の経営は単なる私事ではなく、公事なのです。
そういう考えからみると、その会社の社会に対する貢献が多ければ多いほど、それは報酬として、利益として
返ってきます。しかし、いくら儲けたいと思っても、その利益に相当しないような仕事をしていたならば、
しだいにそれは社会から削られていくことになるわけです。
だからお互いの実力というか、お互いの働きが社会から喜ばれないような状態であれば、社会からの感謝の報酬も
もらえない、ということになります。これはもう極めて簡単なことだと思うのです。