「無宗教こそ日本人の宗教である」 
 
    島田裕巳   角川書店



このタイトルに衝撃と共感を覚えた。
日経ビジネスの書評で知って、これは読みたいなと思っていた。

しばらくしてネットで買おうと思ったら、なんと品切れ!
エッツ?そんなことってあるの。まだ新刊なのに。
それなら東京出張の時に紀伊国屋か丸善で買えばいいだろう。
と思って5月の出張で買いにいったら、どこでも品切れ!なのである。

いやー、みんなきっと共感を覚えたのだろう。
再版されたら買うかなとあきらめていたが、6月に入って会社からの帰りに高松市丸亀通りアーケードの
宮脇書店本店に寄って「検索」してみた。
すると「在庫あり」であった。
いやー、嬉しかったですなあ。
東京では売り切れだが高松ではあった。

なんかちょっと寂しい気もしたが手に入ったのでよかった。

私たち夫婦は宗教観が一致している。これはいいことだと思っている。
私が言うのではなく家内がいつも言っている。

単一の宗教や神を信じるということはないが、なにか大きなもので運命が動かされていることは感じる。
正しい生き方をしなければ、不幸になる。

私も絶対的な神の存在というものは否定的だが、「天」という思いがある。
お天とう様が見ている。
すべては天の思し召し。「天命」という言葉が好きです。
悪いことが起こってもそれは天が与えたことであるからと受け入れる。
苦しい時にもこれは天が与えた成長のための試練である。そういう思いがあるのである。

一方、神社やお寺、そして墓参りにもちゃんと行って拝んでくる。
むしろそれを前向きに捉えている。
霊の存在も認めているのである。

これこそが無宗教という日本人の宗教観のようなのである。

第1章 日本人は本当に「無宗教」と思っているのか?

日本人が、自分たちのことを無宗教であるとか、宗教に対して無節操であるとか言ったとき、
それは単に客観的な事実を述べたものではない。そこには、もっと自分たちは宗教を大切に
しなければならないのに、ないがしろしに、いいかげんな態度で接して好ましくない、
という気持ちが込められている。これは、先に述べた宗教コンプレックスにも結びついていく。
(P27)
とあるが、私はそんなコンプレックスはない。家内と思いが一致していることで自信を持っている。
これでいいのだ。
すべては天の思し召し、与えられた運命なのだ。それを前向きに捉えて精一杯がんばる。
その思いで日々生きているのである。
日本人の3分の1が宗教を大切に思っているということだが、私もYESである。
このわたしの思いは宗教観だと思っているから。



日本人は、ひょっとして無宗教であることを誇りに感じるようになってきたのではないだろうか。
(P33) のとおりだと思う。キリスト教やイスラム教の原理主義での紛争は日本では考えられないのである。




第2章 日本人はなぜ「無宗教」なのか? 

○ 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を乗り越えた神仏習合(P48)
 恥ずかしながら学校で学んだのだろうがすっかり忘れており、この言葉は初めてであった。
 明治政府が西洋かぶれでやろうとしてできなかったことである。
 それほど日本人には神と仏が同居しているのである。私自信、なんの違和感もない。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88

 国分寺町民として25年ほど住み、自治会活動で氏神様の楠尾神社のお祭り関係の当番をやったりして
 稲作と氏神様との関係の理解が進んだ。それまでのアパート生活では感じなかったことで、
 やはり地域住民になって初めて氏神の存在を身近に感じた。
 神主さんの人間性には関係ない。
 一方88ヶ所でもある国分寺。
 楠尾神社と国分寺にはいつもお参りしていた。
 あと家内は滝宮天満宮への参拝でいつも心をきれいにしていた。

 我が家の宗教活動は、神社、お寺、墓参り、この3点セットである。

第3章 日本人はどうやって「無宗教」に至ったのか?

○ 国家神道(P50)
 神道は宗教にあらずと、宗教の枠から外し、それを国民全体の習俗、ないしは道徳に位置づける試みがなされた。
 それは、国家の精神的な統合を図るために、神道の儀式を国民に強制するための方便であったとも言える。
 しかし、これによって、神道を強制しても、信教の自由を侵害してはいないという理屈が立つようになり、
 国民の側も、神道か仏教のどちらかを自らの宗教として選択する必要に迫られなくなった。
 こうした体制は、戦後、「国家神道」と呼ばれることになるが、これによって、神道と仏教を同時に信仰の対象と
 する道が開かれた。
 つまり従来のように、両者を明確に区分しないまま、同時に信仰することが許容されたのである。


○ 新宗教が無宗教に影響を与えた (P51)

  ひとつの宗教を選ぶべきだという圧力がかかるようになった と書かれているが
 そんな圧力は私は感じたことはない。

  創価学会の「折伏(しゃくぶく)」という言葉を初めて知った。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E4%BC%8F
  オウム真理教事件などが起こり、このような新宗教を警戒して、「無宗教」という言葉が意識されるようになったのではないかというのが筆者の意見である。

第4章 日本人はなぜ「無」に惹かれるのか?
    
○ 八百万の神の実態は「名前のない神」(P81)
  初詣客は、祭神のことをほとんど気にしていない。
  私たちは、明治天皇夫妻がそこに祀られているから明治神宮に行くわけではない。
  明治神宮には立派な社があり、そこが東京都民全体にとって氏神の役割を果たしているからこそ、
  初詣をする場所として選ぶのである。
  明治神宮の拝殿の前で、拍手(かしわで)を打ち、祈りを捧げたとき、私たちは、特定の神を対象にしているとは考えない。
  それは、その神社へ行ったときも同じで、神を個別の存在としてはとらえていない。
  私たちは、いわば名前のない神一般に祈っていると言える。
  そのときの私たちの神一般に対する姿勢は、キリスト教徒が教会で祈りを捧げ、イスラム教徒がモスクで祈りを捧げるときと、
  それほど大きくは違わない。少なくとも、そこに決定的な差異を見出すことは難しい。
     → 納得の説明でうなずくことしきりであり、安心させていただけた。
     「私たち」と自信を持って言い切っている筆者にも好感を持つ。


○ 「神」よりも「こころ」が大事な日本人
  日本人にとって、神という存在は必ずしも重要ではない。むしろ、私たちが重要だと感じるのは、「こころ」ではないだろうか。
  一神教の神と多神教の神々が対比されるのではなく、神とこころが対比されているように思える。

  …

  私は、「心」ではなく「こころ」という表記を使った。心と書くと、それは精神や魂に通じる普遍的な性格を持つように思えるが、
  こころは、日本独特の性格を持っている。私が、こころという言葉にそうした性格をあえて持たせている、と理解してもらっても
  かまわない。
  問題は、こころが存在する場所である。それは、個人のからだの中にあるように思われるだろう。一般には脳や心臓部などが、
  こころの領域として考えられている。
  ★ ただ、ここで重要なのことは、こころが個人のなかで完結していない点である。
  こころがひとつになるとき、そこには複数の人間がかかわっている。二人以上の人間が同じ気持ちになって事にあたらなければ、
  こころはひとつにならない。それが可能だということは、あるいは可能だと考えられていることは、こころは一個人のなかで
  完結するものではなく、一種の共同性を持つことが示されている。
  私は私であり、他者のこころは分からない。それが前提のはずである。ところが、こころをひつつにするという表現が成り立つ
  日本社会では、自分の気持ちと他者の気持ちとが重なり、私が相手のことを理解し、相手も私のことを理解することが、十分に
  可能だと考えられている。

  …

  欧米の個人主義と、日本の集団主義は対比されるが、上司の命令が絶対とされていると、部下が自分たちのすべきことに
  納得した上で創意工夫を行い、結束して事にあたる余地は生まれない。こころがひとつにならなければ、集団のパワーは
  発揮されないのである。
   → 納得の説明である。わが意を得たりの気持ちである。価値観が一致している。

○ 無と空は決定的に違う
  日本人は、無私や無我、無心という言葉を好み、そこに価値を置き、無宗教だと公言する。
  日本人には、「無」に強い魅力を感じている。こころに関しても、こころを無にすること、あるいはこころ自体を無くすことに
  重要性を見出しているのである。
 
  …
  空ということばは単独でしか用いられない。一方、無は他のことばと結びつく。

  …
  無という言葉が、ひとつの方向性、運動性を持っているということは、無宗教という表現は、たんに宗教が無いということに
  とどまらず、宗教をある点で否定し、その限界やしがらみから解き放たれていく意味を持つことになる。

○ 「自分を無にする」とは、私の限界を超えること
 
  田植えなどは、いつそれを行うかで収穫量に影響が出るが、お互いに助け合って行わなければならないので、自分の田のことだけを
  考えてはいられない。村全体を考え、村全体の収穫量がもっとも上がるスケジュールを組み立てた上で、自分の家の田の田植えの時期
  も決まってくる。あるいは、決められてくるので、それには逆らいようがないとも言える。
  常に自分のことを最優先して考えるのではなく、まずは自分が所属する集団全体の利害を考える。
  それが共同体に属する人間に求められる最も好ましい姿勢である。
  そこには集団が繁栄すれば、集団に属する自分にも恩恵が返り、結局は自分をもっとも幸福にしてくれるのだという思いもある。
  それがわかっているからこそ、集団の利害を最優先して行動するわけだ。

  …

  自分を無にするとは、いったいどういうことなのだろうか。それは、自分の価値を否定することなのだろうか。
  自分で考えることをいっさい放棄して、流れに身を任せてしまうことなのだろうか。
  おそらくそうではない。日本人は無に求めてきたのは、私という小さな存在の限界を超えることである。
  もっと広い世界、もっと豊かな世界に出て行くことをなんとか可能にしようということのはずである。
  限界を設けないことで、本当の自由を得ていく。そうした可能性があるからこそ、日本人は無という言葉に強い魅力を
  感じてきたのである。

第5章 「無宗教」は世界で大きな価値がある。

○ 時代をふたたび動かす宗教
  
  井筒俊彦 81年に経団連で行った講演の内容 →「イスラーム文化」(岩波文庫)
  の紹介があったので読んでみようと思う。

○ グローバル化とともに、宗教の力はより大きくなる
 
  経済がグローバル化していけば、相対的に国の力は衰えていく。
  …
  国民国家が国民の生活を支えることができたのは、経済成長が続き、潤沢な国家の財政を用いて、
  社会保障制度を維持できたからだ。それが不可能になれば、国民の生活を国家が守ることはできなくなる。
  経済格差は拡大し、低所得者層が増えることで、生活に不安を抱える人々が増加せざるを得ない。
  国家があてにならない状況のなかで、人々が頼れるものは宗教である。
  宗教は人々を結束させる力を持つとともに、相互扶助の態勢を確立することで、困窮しても、国家よって救われない人々に
  救済の手を差し伸べていく。さらには、宗教が提供するビジョンは生活が困窮した人々に救済の明日への希望を与えていくの
  である。
  したがって、グローバル化が進行していけば、宗教への期待度はさらに高まり、その力はより大きなものになっていく。
  ここ数十年の間に、宗教をめぐって起こってきたことは、国民国家の衰退と併行する現象なのである。
  ところが、宗教は、それを進行する人々に救いをもたらす一方で、対立や抗争を生み出すことになる。
  あるいは、テロのように、社会全体に脅威を与え、その存立を脅かす出来事を生んでいく。
  宗教は本来、平和を志向するといわれるが、事態はそうした方向に向かっていない。
  むしろ、宗教が世界平和を脅かす最も危険な要因にさえなっている。
     →納得の説である。

○ キリスト教とイスラム教には決定的な違いがある。(P112)
  イスラム教では、預言者ムハンマドはあくまで人間であると考えられ、決して神と等しい存在と考えられていない。
  それに対して、キリスト教では、十字架に架けられて殺され、その後復活したイエス・キリストは、人としての
  性格を持っていると同時に、神としての性格も持っていると考えられている。
  そうした考え方は、最初は存在しなかった。ところが、キリスト教が歴史を重ねるなかで、キリストに人性と神性が
  ともに備わっているという考え方が打ち出され、公会議を通して、それが教義として認められたのだった。
  これは、イスラム教には受け入れられない考え方である。また、キリスト教の母体となったユダヤ教にも認められない
  考え方である。 
   …
  イスラム教とキリスト教、さらにはユダヤ教は、信仰する神は同一であり、その点では共通している。
  ところが、その神をどのようにとらえるかでは、違いを見せている。
  特に、最も重要な預言者を人間としてとらえるのか、それを神としてとらえるかで、考え方が根本的に
  異なっている。
   → ふーん という感じ。知りませんでした。

○ 排他的で攻撃的になる「移民の宗教」
  (最後の文章がよかった)
  海外から外国人を迎える場合も、日本人が移民などで海外へ行く場合も、無宗教であることが対立を生まないことに
  結びついている。それは他の宗教を信仰する人々には考えられないことである。
  この点で、日本人が無宗教であることは大いなる価値がある。私たち日本人が、無宗教と公言することに誇りを抱く
  ようになったのも、信仰を強調し、特定の宗教に立脚するより、無宗教で臨む方が、対立を生まず、平和をもたらす
  可能性があることが、次第に自覚されるようになってきたからではないだろうか。


第6章 世界の宗教も実は「無宗教」である
  
○ 神道は宗教のモデルにならない
  神道は、土着の信仰としては、仏教以上に長い歴史と伝統を有している。けれども、神道には明確な教義の体系は
  なく、高度の思想性を伴っていない。
  …
  私たちは、有名な僧侶を思い浮かべようとすれば、すぐに幾人かの人物に思い至る。
  ところが、有名な神主を思い浮かべようとしても、多くの人にそれはできない。
  …
  神道の世界では、その教えを説くような人物が存在しないからである。

○ 仏教とキリスト教カトリックしかない「出家」
  「出家」では俗人とは異なる生活を送る。僧侶は、原則として、家庭を営むことはなく、性的な行為は戒められている。
  部派仏教(大乗仏教が成立する以前の仏教で、主に南アジアの諸国に伝わった)の国では、仏教の僧侶は労働することが
  ない。托鉢(たくはつ)によって生活を成り立たせているのも、俗人からの支えによってしか生活できないからである。
  日本の僧侶の場合には、妻帯し、家庭生活を営んでいる者が少なくない。その点では、日本の僧侶は出家として考えて
  いいのかどうか、まずそこに問題がある。だが、一方で世俗とは距離を置き、妻帯もしていないまま修行に勤しんでいる
  「清僧」も存在する。

  …

  神道をみると、神主は出家でないし、聖職者でもない。職業的な宗教家であるとは言えるかも知れないが、妻帯を
  禁じられているわけではなく、俗人とは区別されない。
  今では、主だった神社には、専門の神主が常駐しているが、昔はそうではなかった。
  神主になるのは、一般の社会生活を営む、生業のある俗人であり、彼らは当番制により交代で神道の儀式を営んだ。
  その際には、定められた方式に従って精進潔斎し、身を清めて、儀式に臨んだ。しかし、儀式が終われば、また俗人
  としての生活に戻るわけで、ずっと神主を続けるわけではなかった。
  したがって、聖職者でない神主には、救済者としての役割はまったく期待されていなかった。
  また、その能力も与えられていないのである。

   →非常に納得!

● イスラム教に聖職者はいない
  神道のあり方に最も近いのが、イスラム教である。
  一般には、習俗に近い神道と、厳格な信仰が求められるイスラム教は、対極にあると考えられている。
  ところが、それは誤解である。イスラム教が近いのは、キリスト教でもなければ、仏教でもなく、神道なのである。
  ユダヤ教もそれに近いといってもいいだろう。
   → えーー!!!そうなんですかあ?? という驚きであった。

  イスラム教の信者になろうとする場合、二人以上のイスラム教徒の前で、アラビア語で
  「ラーイラーハ、イッラッラーフ、ムハンマドゥンランスールッラーヒ」と唱えれば、それで信者として
  認められることになっている。このアラビア語は、「アッラーのほかに神はない。ムハンマドはアッラーの使徒である」
  と訳される。
  (この言葉は日常的に唱えられているので、イスラム教国やイスラム教の家族になかに生まれれば、
  自動的にイスラム教徒になっていく)
  
  イスラム教には、実は聖職者はいない。「イマーム」をさして、イスラム教の聖職者であるといった言い方がなされる
  ことがあるが、正確には聖職者ではない。イマームは、あくまで指導者であり、特別の修行を経て、出家しているわけで
  はない。イマームはあくまで俗人であり、妻帯して家族もいる。
  他にもイスラム教には、出家者は存在せず、出家という制度も概念も存在しないのである。
  したがって、イスラム教の世界では、聖なる世界と俗なる世界は区別されていない。
  信者になるための特別な儀式が存在しないのも、それと関連する。

   → へー、そうなんだあと驚きであったが、なにかスッキリとした。


● イスラム教徒は本当に敬虔なのか?
  断食の時刻を過ぎれば、さかんに飲み食いする姿からは、敬虔とは異なる印象を受ける。
  断食月が終わるとみんな体重が増えているという話しもある。
  1日5回の礼拝も、その時間は仕事を休めるわけで、息抜きになっている面すらある。
 
○ イスラム教のあり方は神道に最も近い
  日本の神道でもそうだが、イスラム教でも、月経は穢れ(けがれ)としてとらえられている。
  「月経の書」で詳細に規定
  「ハディーズ」の内容を見ていくと、穢れを嫌い、いかに浄めるかに熱心な点で、イスラム教は日本の神道に
  かなり似ている。規定の仕方や内容には違いがあるものの、本質は共通しているように思える。
  イスラム教は神道なのではないか。そのようにさえ思えてくる。日本人は、自分の土着信仰である神道と
  イスラム教は対極にあると考えている。だが、イスラム教は、浄めを行って神に祈るという点で、そのあり方は
  神道に一番近い。神道は、仏教やキリスト教以上に、イスラム教に似ているのである。


○ 世界の宗教の基本は無宗教である
  日本の神道でもイスラム教でも、教団は、それほど重要性を持っていない。実質的には、神道の信者になる方法はない。
  イスラム教でも基本的に同じである。ユダヤ教でも、ユダヤ人の社会や家族に生まれれば、自動的にユダヤ教徒に
  なるわけで、入信のための特別な儀礼はない。ヒンドゥー教でも、儒教や道教でも、そのあたりは共通している。
  神を祀ることを意味する宗教では、明確な入信の儀礼を受けて、信者としての自覚を得ることはほとんど重要視
  されていないのである。
  そうなると、日本人が無宗教であるのと同じ意味で、イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、ヒンドゥー教徒も、さらには
  儒教徒や道教徒も、いずれも実際は無宗教であることになる。生まれながらに行っている行動は、外から見れば
  宗教活動に見えるが、内側からすれば、単なる習俗や慣習に過ぎない。それをことさら意識することなく、自分が
  特定の宗教の信者であるという意識を持つこともない。
  信仰を意識するのは、そこに他の宗教を信仰する人間が現れたときである。
  …

  人は、自分たちとは異なる信仰を持つ人間、異なる宗教によって結束した人々と相対したりしなければ、
  自らの信仰や宗教を意識し、その宗教の信者であるという自覚を持つことはない。


第7章 「無宗教」が世界を救う
○ 日本人は宗教にいいかでんではない!

○ 宗教が世界平和を阻害している  

○ 「出家」には無理がある
  人間も生物の一員であり、性的な関係を結んで子孫を残すことは、本能として組み込まれている。
  その点で、性欲を抱くことは自然であり、むしろそれを否定する方が不自然である。
  …
  出家した人間が、社会と完全に没交渉になり、そうした環境から完全に離れて生活するならば、欲望を刺激されることも
  ない。ところが現代では、宗教家にも社会参加が求められ、現実の社会こそが活動の舞台となっている。
  つまり、欲望を刺激する社会とかかわらざるを得ないわけで、欲望に惑わされないことは、相当に難しい。


○ 僧侶の妻帯は堕落ではない
  僧侶が妻帯し、家庭を持つことは、一般に堕落だと見なされている。
  日本でその先鞭をつけたのが、浄土真宗の開祖である親鸞だった。親鸞は自ら妻帯し、家庭を持つことで
  それまでの僧侶のあり方を大きく変えた。そして明治以降になると、他の宗派でも僧侶の妻帯が一般化し、
  法的にも認められるようになった。これによって、出家と在家の区別は曖昧なものになった。

○ 宗教に厳格さを求めるな!

○ 無宗教は宗教の自由を確保する

○ 「自己」を解き放つ無宗教

○ 無宗教は世界そのものである
  無宗教は、それだけの広がりを持っている。
  …
  私たち日本人は、無ということに限りない魅力を感じてきた。そこに、果てしない広がりを感じてきた。
  無の世界では、あらゆるものが溶け合い、自己と他者を隔てる壁も、宗教や思想、信条が隔てる壁も、
  民族や人種、国家につきまとう壁も、すべては消え去っていく、そこには無限の自由がある。
  私の事だけを考えて生きることはかえって難しい。たんに自分の欲望を充足するだけでは満たされないものがある。
  他者のために生きる方が、はるかに楽で、喜びも大きい。
  世界は複雑さを増し、何が正しいことなのか、どういった生き方が一番好ましいのか、その判断は難しい。
  しかも、世界はつねに流動的で、どういった方向に向かっていくのか、その進路を予測することもできない。
  「般若心境」では、すでに述べたように、現象を意味する色と、無に通じる空との関係のなかに世界のあり方を
  見ようとしている。何も無い空であるからこそ、そこから多様な現象が立ち現れるのであり、その多様性の
  背後には、無の世界が広がっている。
   → 無のあとに限がつくと ああ、無限になるんだなあ と浮かんだ
  転変する世界を前にして、私たちは自分を無にして、いったいそこで何が起こるのかを見ていかねばならない。
  その流れに身を任せつつ、つねに覚めた目を持ちながら、何ものにもとらわれず、進んでいかねばならない。
  世界には、不動の中心があるわけではなく、あらゆるものを生み出す限りない無があるだけだ。
  まだまだ私たちは、無宗教の世界の姿を十分にとらえきれていないし、その意味を理解していない。
  しかし、そこに、今までの宗教にない新たな可能性があることだけは理解できるのではないだろうか。
  日本人は、今、無宗教であることの幸福を認識し、そこから次のステップを踏み出していかねばならない。
  世界は果てしなく広がっている。それを限定されたものとしてとらえるほど愚かなことはない。
  無宗教は、信仰の対象ではない。それは世界そのものであり、私のなかにも広がっている。
  可能性はそこしかないとも言える。まだ、無宗教についての考察ははじまったばかりなのである。



  【完】