「人は化ける!組織も化ける!」

   中川 政雄 PHP研究所

この本は以下のセミナーを聞いた時に紹介されたので読んでみた。
セミナーでの中川さんの恩師となる山野さんの死は、車の中で死んだのは同じだが
クラッシュではなく心筋梗塞と知った。(いや、心筋梗塞を起こしてクラッシュしたのかな?)

本の中ではなぜ常務理事を追われたのかその理由について触れられていないのがひっかかりとして残ったが
セミナーでの語り以外のさまざまな経験を語ってくれていた。

28歳支店長を勤めたとき、女性工員の不正が発覚して2階級降格、
とにかくアップダウンが激しい。
また、「うつ」も経験しており自殺しようとしたこともある。
とにかく、下の苦労をイヤというほど経験しているだけに
望まれるリーダー像を出来ない社員の立場から見えている。
だから化けさせることができたのかも知れない。

だからこそ、どうして突然職を追われたのか、そこのところが解せないのである。

いろいろな中小企業の社長さんから極意を教わっている。
これも、誠意を見せて、金にはならないが誠意、気持ちで当たっていた顧客本意の姿勢のたまものだろう。
言葉ではいえてもなかなか実践できることではない。

講演以外の項目でピックアップ

◎ 業績の良し悪しは整理整頓と挨拶でわかる
  → これは体得していると思っている。
    企業訪問、工場見学での私の大きなポイントである。
  朝一番に出勤して店の回りを掃きなはれ (社長→新支店長)

◎ 上にたったら、まず辛抱や、功を焦ったらあかん

◎ 自分を守ったら不正融資に発展する (覚悟を持て)

◎ 寿司を運ぶほうが人間として先だ (不渡りを出した社長へ届ける(詰問を我慢))

◎ 人材育成は親鳥と卵の中のひな鳥との関係に「似ている
  (卵を割るときの双方の絶妙のタイミング)

◎ 仕事に関係のないことでも長所があれば認めよう
  → これは私は自然にやっていること。
    仕事に関係のないことなどない。
    「芸は身を助くる」である
    中川さんの場合は、部下の「落語」であった。

◎ 社員を大事にせずに何を大事にするのか

◎ リーダーは棒を回し続けなければならない
  → 慣性で回っていることに気がつかないで棒を回すのをしないと止まってしまう。
    引継ぎ時の注意事項 


                       
企業活性化セミナー
「元気の出前」やったらやれるで!〜人は化ける 組織も化ける〜


1.日 時 : 平成18年12月5日(火)13時30分〜15時 
2.場 所 : 高松テルサ 3階 大会議室(高松市屋島西町2366-1) 
3.出席者 : 100名弱 

 

  

OSAさんから紹介がありタイトルに惹かれて聞いてきたが非常によかった。
 
Subject: こんな講習会があります

感性とはマッチしないかもしれませんが、社内掲示板でこんな講習会を見つけました。
いかがでしょうか?

雇用・能力開発機構香川センターより、
企業活性化セミナー「『元気の出前』 やったらやれるで! 〜人は化ける 組織も化ける〜」
12/5(火)開催のご案内をいただきました。
講師: オフィス・なかがわ代表 元気コメンテーター  中川 政雄

 
◎ ほぼ満席の盛況で、全員が中川さんの迫力ある語りに惹き込まれてしまいました。
  内容は中川さんの自身が化けた人生をそのまま語ることでした。
   いじめられっこで勉強できない劣等生がどうして化けたのか。
 
  「愛情」と「関心」と「期待」を持ってくれる上司にめぐり合えて化けた。
  @ 人との出会い A 仕事との出会い B 言葉との出会い
  そしてそれに気づくことが、化けられる要因である。
  その物語を、面白おかしくときには涙を誘いながら熱っぽく語った1時間半であった。
  誰一人として居眠りをした観客はいなかったであろう。
 
【講師紹介】
中川政雄(なかがわまさお)オフィスなかがわ 代表

 

    講演会場                        壇上にいたのは最初だけ

(講演概要)
 自己紹介  1942年八尾生まれ 河内弁口悪い地域
       大学すべて落ちて高卒で信用金庫へ入社
       28歳で最年少支店長
       常務理事を最後に2002年退職
       その後オフィス中川を設立し元気コメンテーターとして活躍

1 仕事の基本
  集金係りでも好かれる集金人と好かれない集金人がいる
  それぞれプラスアルファー、マイナスアルファーとなって業績に大きく差が出る。
  好かれる集金人はこうだ
    ・ 明るい
    ・ 笑顔
    ・ 声が大きい
    ・ 挨拶はっきり
    ・ 腰が低い
 
  やたら声が大きい。最前列(2列目)で居たので、もう声が大きい威勢のいいオッチャンなやあ、とちょっと閉口気味に聞き始めていた。
 八尾、河内は口が悪い。そんな地域の社長さんへの挨拶の例を実演。
 
2 笑顔は作れ  
  毎朝、出かけに玄関で鏡を見て笑顔を作れ。
  割り箸1本を軽く口にくわえてにこっと微笑む。その笑顔を形状記憶しておけ。
  ただし一人でやること。

3 大学客員教授
  今年から客員教授となった。「高卒でっせ」と言うと、大学の教授には大卒の資格は不要ということでこれはラッキー。教授という肩書きは嬉しい。
 気合を入れて授業に臨んだが見事にガックリ。
 159人受講者なのに十数名しかいない、挨拶もせず、寝ているやつ、反応しないやつばかり。
 ただ後半になるといつのまにか学生で一杯に。出席カードを最後に取るからだそぅだ。
 女子大を定年退官して来た先生は、「女子大では授業中化粧してるのだから、今の大学の学生の方がマシです」とのことで絶句。
  事務の方から絶対に怒らないで下さい。少子化で学生の取り合いになっているので学生はお客様ですから。ということでぐっと我慢したのであった。
 
  学生と話しをしてくださいというので熱心な数名とまずやった。
  その子たちはみんな留学生だった。彼らは夜はバイトして授業料をかせいで大学に来ているのだ。
  その子らに、「卒業したらどうする?」と聞くと、
  ◎ お国に帰って役に立ちたい と全員答えは同じ。
  次に、日本の子らを集めて同じ問いをすると、
  ● アルバイトやりますわ。会社に入って束縛されるのイヤですから。
実入りもバイトの方がいいし

こんな若者で日本はどうなる。
経営者の人には大卒だからと期待してはいけない。
年齢から10歳ほど差し引いて考えた方がよい。

4 実は、いじめられていた、情けない男の子だった
  この話しが一番びっくりした。
  この声のデカイ元気な人が、好かれない社員だったとは。
  180度違う話しに「何で?」と思わざると得なかった。
  いきなりこの話しをするのではなく、現状の元気な姿を焼き付けておいて、
  「実は…」と入るあたりが上手い。

  
   

 @ 過保護
   大農家の長男として生まれる。5年目にさずかった男の子で大事な跡取だからということで、過保護に育つ。
  このためひ弱であり学校では「いじめの対象になった」。後ろから頭をぶられてもケンカの仕方を知らない
  (兄弟げんかで鍛えられていない)ので、怒るのではなくニヤニヤしてごまかしている情けない少年だった。
  親に言えば担任に頼みにいくのでいじめが何倍にもなる恐れがあってとてもいえなかった。
  成績もダメで、名前を間違えなければ入れるといわれた大学まで落ちて(4校受験)、仕方なく親の縁故で
  (当時は縁故とは思ってなかった)、信用金庫に入った。
   そこでも暗い、元気のない青年であったので、雑用係りに回される。

   @ パチンコ屋の集金
   A 郵便局の私書箱の郵便物を取ってくる役 (夏でもサンタクロースと揶揄される)
   B 封筒の宛名書き

  これをずーっと3年。上司からはダメなヤツ。後輩にも抜かれてボケ。といわれつづけ、
  もう会社を辞めると母親にすがることたびたび。辞めても家が裕福であり食うには困らないという甘えもあった。しかし母親はこれだけは、ダメ。石の上にも3年。辛抱しろと言う。
  農地委員をしていた父親にも勇気をもって直訴したがぶっ飛ばされた。

  そんな中で「山野 博」係長と出会う。
  3人目の上司であった。
  最初の3週間は朝と晩のあいさつだけ。
  俺は無視されている。なんやこいつは。と反感持っていた。

  前の係長は反発心でよくなって欲しいという親心で、ダメやなあと言ってくれていた。
  しかし本人が自覚している(自分はダメな人間と自覚)ところに、ダメやなあと言われたら、
  余計に落ち込むだけでやる気なんか出ない。

  私の今があるのは山野さんのおかげだ。

       
   


 半ドンの土曜日。パチンコ屋の集金があるので残っていたところへ山野係長が声をかけてくれた。
 どや、今晩予定あるんか?ないなら付き合え。
 といって軽自動車に乗せてくれて自宅まで。一緒に夕食を食べてから応接間でこういわれた。

 「中川!どないで、俺にダマされたと思ってイチから勉強する気ないか?」
 「人生の中にあって、2年や3年死に物狂いで勉強することが必要だぞ」
 「おまえを見たところ、これまで歯を食いしばってやったという形跡がない」
 「今からでも遅くないぞ」
 「人生はな、悔しさをバネにして立ち上がることに値打ちがあるんや」
 「失敗することは怖いものではない、勇気を失うことが最も怖いンや」
 「俺が教えてやる」

 気がついたら、自分の人生で初めて「頑張ります」と答えていた。
  ということで「手形小切手法」を勉強することになった。

 言葉で動かされた。
「人生とは」、「今からでも遅くない」
 この言葉がドーンを胸を打った。


  そして翌週月曜日には配属が変わり、雑用はすべて新人に、自分は融資受付業務になったのである。
 毎晩10時、11時まで。勉強はこれと別である。
 それから帰ってから毎日1問づつ、山野係長の作った問題を解く。
 宿題が嫌いだった自分が、ゼンゼンイヤでなかった。
  
仕事が終わってから、山野係長が宿題を見る。
 間違えていても怒らない。「うーん」とうなるばかりで、「ほなもう1日考えてみるかな」という指導。
 正解だと、「おー、おーたな。ひねって作っていたんだけどよくできたな。」「お前でもやればできるようになるんやな」

  このできの悪いお前でもという言葉はゼンゼン嫌ではなかったのだ。
  
1日1問以上は無理するな。1日1問でいい。
  日曜日は家の田んぼを手伝ってやれ。
  しかし月から土まで毎日1問やると年間で300問だ。
  2年で600問だ。

  それを6ヶ月続けていたら、始まったばかりの社内試験で1番になった。

  仕事には時間外手当てもつかなかったがそんなことゼンゼン関係なかった。
  「愛情」と「関心」と「期待」を持ってくれる上司にめぐりあい自分は化けた。
  「化ける」という定義は、水素と酸素が一緒になってまったく違う水が出来てしまうようなことを
  私は化けると言っている。

  その後、異動して山野係長とは別の支店となったが、家での泊まり込み特訓も月1,2回で
  続いていた。
  山野さんにずっとついていくぞ!

  人生には上り坂、下り坂、そして「まさか!」がある……が、
  このあと「まさか!」に遭遇。

  (私も山野さんはすごい人だなあ。どれほど偉くなられたんだろうという風に思っていたので
あるが。)

  交通事故に巻き込まれて、車と車の間でクラッシュして圧死。
  33歳の事故死であった。息子さんは4歳。
  これが42年前のことである。
  
  人に期待される喜びを教えてくれた先輩は天の人となった。
  自分はこの教えをずっと背負ってやってきた。
  
  今の社会にも「こころ」を取り戻したいと思っている。