「脳と創造性 「この私」というクオリアへ 」茂木健一郎
 
 出版社:PHPエディターズ・グループ /PHP研究所


    発行年月:2005年04月

自分には創造性がないのではないか?
そうこれまで漠然と思っていたが、本書を読んで、
「そんなことはない、自分の行動そのものが創造性を引き出すことを志向しており
十分創造的である」という自信を持たせてくれた。
どのページにもきらきら光る言葉や文章があり非常に嬉しかった。

そもそものきっかけは、日経ビジネス8月15日号の書評であった。
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創造性を脳科学する  茂木健一郎著 PHP研究所
 評者 東京都杉並区立和田中学校校長 藤原 和博 氏

「創造性の本質には、他社とのコミュニケーションが深く関わっている。」
(中略)「独創性は個人にしか宿らない」と断言したアインシュタインにおいてさえ、
妻や友人たちと議論を積み重ねることが、その創造のプロセスに不可欠だったのだ」と述べ、
創造は、個人の内部に起こると考えるより、コミュニケーションを通じて「他者との間に宿る」と
考えた方がよいと指摘する。
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「創造性を脳科学する」という言葉に惹かれて最初は図書館で借りたのだが、
これは手元に置かねばいけないと感じて購入した。
図書館の本にはマーキングできないからである。
購入の際に「創造性を脳科学する」という本のタイトルはなかったのである。エッツ?そんな?
実は妻が図書館にアルバイトに行っており、彼女に頼んで国分寺図書館で借りてもらったのだが
そのときにはタイトルは確認しなかったのであった。
丸善や八重洲ブックセンターにもない、アマゾンにもない!
八重洲ブックセンターでは、最近出た本で茂木健一郎の書はこれですと見せてくれたのだが
表紙にカバーがついていて、見た感じが違うと感じてしまった。
中を読めばよかったのだが、あまりにも表紙カバーの茂木さんの顔写真がイメージに合わずに
違いますと言って返した。丸善の係りの人が一所懸命に調べてくれた御礼に、代わりに永守さんの
「情熱・熱意・執念の経営」を購入したのであった。

しかしどうしても読みたくて、よくよく調べてみると、「脳と創造性」のサブタイトルである
-「この私」というクオリアへ - というのがそうだったかなあ?と思い出してアマゾンにて購入。
高松の書店では売っていなかったのである。


そしてやっと手にしてを読み上げましたが非常に満足。(前回は半分で図書館に返した)
エプソン道場には、さわりだけを報告。
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創造性とは「コンピュータ」には決してできない、人間(動物)のすばらしい機能である。
不確定性に満ちたこの世界を生き抜くための本能ともいえる。
他者とのコミュニケーション、感情、直感が、脳が新しいものを生み出すために不可欠。
会話とは創造性がなければ出来ないすごい行為。
たとえ平凡な会話でも、会話が交わせるということ自体がひとつの驚異である。
会話の中の言葉は、その場その場で生み出さなければならない。
相手が言った言葉を受け、臨機応変にその場で適切な言葉を生み出すことは
人間の創造性を支える脳の働きなしには不可能なのである。
そして、一旦アウトプット(言葉、文章)にしないと自分が何を考えているのかわからないというのも脳の特徴。
「創造性の最高の形態のひとつは、自分自身が変わることである」
このフレーズが痛く気に入りました。
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作者があとがきで書いているように、「フロー」状態で書き上げたというように
非常に芸術的な、ちょっと自己陶酔的な感じも受けるが、
その根源には、コンピュータと人間の脳は決定的に違う!
そういう思いが強くでていると思う。
ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャーという現職もなるほどと思う。
東工大工学部を卒業後、彼女のために東大法学部に入り直したという経歴。
理系、文系の両方を学び、読んだ本、見た映画は数え切れないほど。
どうしてこんなによく覚えているのか?と信じられないくらいの引用が頻繁に出てくる。
まさに感嘆である。難しい言葉もやたら登場する。
だけど、これは自己顕示欲のなせる業ではないと思えた。文脈上、どうしても引用せざるを得ないのである。
素直に読めた。ただ、見てもない映画の場面についてはついて行けないところがあったのは事実。
用語も難しい。しかし、これも「フロー」状態のせいだろうと許容したい。


力強い勇気を与えてくれた本書について、かなり詳しく後記をしたためておこう。


目次に沿って、マークしたフレーズを引用していこう。


【まえがき】

そもそも創造的であるとは、世界を今までと違った視点から見るということである。
創造性についての私たちの見解、思い込みを改めることは、時代の要請である。

肉体労働  : 物理的に力を出す筋肉の力   ピラミッド、城
 ↓
蒸気機関の発明 単純肉体労働の価値は下がる
 ↓
ホワイトカラー : 情報を書類に記録し、まとめていく力  先進工業国の学校教育はホワイトカラー要請を志向
 ↓
IT全盛  ホワイトカラーの情報処理、事務処理がワンクリックで出来るようになった  
 ↓
人間の創造性が高く評価される時代

◎どんなにコンピュータが進化しても情報ネットワークが発達しても、人工機械には任せられない。
 新しいものを生み出すこと、すでにあるものに付加価値をつけることは人間にしかできない。

創造性を解き明かすためには、コンピュータに代わる、脳を理解するためのメタファーを見出すこと。
この課題は、物質である脳が「心」を生み出す不思議を解き明かす、「心脳問題」の本質にもかかわる。

私たちの脳は、同じ計算を正確、高速に繰る返すのは苦手。その代わり、新しいものを生み出す、創造性という
すばらしい能力を持っている。

創造性とは何か?ということは、私たち人間が生きるとはどのようなことか、ということを見直すことである。

今や一握りの天才だけが創造性を独占する次代は終わった。
すべての人が、萎縮することなく、社会的な評価を気にすることなく、自らの遠い昔からあった創造性を発揮すべき時代が来た、
創造する喜びが、消費する喜びに並び立つ時が来たのである。


(⇒なんだかすごく納得させられ、力づけられた)


第1章 創造性の脱神話化

人間とコンピュータの共生。単純作業から解放されて、いよいよ人間らしい能力の中核に接続することが求められる。

今やグローバル経済の中、模倣ではない、絶えざるイノベーションを内発的に実現してゆかねば一国の経済は立ち行かない。

私たちは日本という国家国民のためだけに創造的であろうとするのではない。
個人としてよりよく生きることが、社会としても全体の福利の向上につながる。
そのような部分最適と全体最適のダイナミクスを信じることが、それぞれの文化の力となるのではないか。
現在の日本の文化状況には、私たち人間の内なる創造性を十分発揮することが個人と社会の幸福につながるという
信仰が欠けているのではないか。
創造性の可能性への信頼と奨励が必要だ。

天才の物語が「創造するということは特別なことだ」という思い込みを強化してしまっている。
そんなことはない。
創造性の本質には、他者とのコミュニケーションが深く関わっている。

創造性は、その大半が無意識のうちに起こる脳内のプロセスなのである。

キリスト教の影響を受けた西洋の文化においては、「創造(creation)」の概念は、天地創造を成し遂げた神の一撃の作用という
メタファーをどうしてもひきずっている。

会話が交わせるということ自体がひとつの驚異である。友人との会話に夢中になっている時、私たちは自分で気がつかないうちに、
言葉を湯水のように生み出す天才になっているのである。

コンピュータ人間の創造性のツールとして使うという試みにも、様々な困難と、モラルハザードが内在していることは周知の事実である。
コンピュータを創造性のプロセスに下手に介在させてしまうと、多くの場合、コンピュータが人間に近づくよりも、
人間がコンピュータに近づく結果に終わってしまう。
コンピュータが生きていないということは、モノとしてのコンピュータの中に、生命作用への潜在的な可能性がないということではない。
シリコンの塊から生命が生まれる原理的な可能性はある。ただ、コンピュータのダイナミクスが生命を支えるために必要な形態形成や、
既定の秩序からの逸脱といったプロセスを有機的に組織するようにはできていないというだけの話である。
実際、生命の本質は、論理的、意識的なコントロールの不可能性にある。論理的、意識的コントロールにとって便利なツールとして
発展してきたコンピュータは、生命作用と異なる位相にあると言わざるを得ない。
 (⇒ここを詳しく引用したのは、現在の業務でシステムの奴隷にされつつある現状を憂いてのためである)


第2章 論理と直観
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」から話が引かれている。

第二次世界大戦中のロスアラモス研究所で行われていたマンハッタン計画の内容について
ファイマンは大佐に迫る。技術者たちが何をしよとしているのか全貌を知らされていなかったので
プロジェクトが進まなかったからである。

大佐は「5分だけ時間をくれ」というと、窓のところへ行き、立ち止まって考え始めた。
このようなことにこそ、彼ら軍の責任者が得意なところなのだ。--つまり決断するということである。
そして5分後、大佐は振り返って
「判った。ファインマン君、みんなに情報を伝えてくれ」と言ったのである。

人間の判断する能力の中核に、直感を支える脳のシステムがある。
ルールに従って決断していれば常に「正解」に到達できるのであれば、そんなに楽なことはない。
しかし、そのような「論理の楽園」はフィクションの中にしか存在しない。
たとえ参照すべき軍の規定などがあったとしても、最後の最後に頼りになるのは、
「こうした方がよさそうだ」という自分自身の直感なのである。
もし大佐が、自分自身の心に問いかけることなしに、軍の規定がこうだから、などと官僚的な言い訳を
していたら、ファインマンは失望していたことだろう。




第3章 不確実性と感情


いいですねえ、このタイトル。
いくつか、つまみ食い的に抽出します。


自発性は生命の本質にかかわっている。
風に舞う木の葉は自ら動いているのではない。
そのような他律的な動きと、生き物の自立的な動きを瞬時に区別する仕組みを私たちの脳は持っている。
「自ら動く」という生命の本質こそが、人間の脳の創造性につながっているのである。

脳の神経細胞が自発的な活動をしていることは、創造性の前提条件である。
その自発的活動を、意味のある想像的なプロセスに結びつけるものが「感情」なのである。
感情は、人間の知性の最も高度なレベルに至るまで世界を秩序づけ、意味づける際に本質的な役割を果たす、
ある意味では最も高度な脳の働きの一部とみなされるようになっている。

確かに感情は原始的な衝動のようなものであり、それを理性でコントロールしなければ、うまく生きていくことはできない
と言う印象を持っても無理はない。
しかし、近年になってそのような原始的衝動としての感情の役割はごく一部に過ぎないことがわかってきた。
実際には、感情の大切な働きは、
「何が自分の生存にとってプラスで、何がマイナスなのか正解がわからない状況、すなわち不確実さに対する人間を含む生物の適応と
関係しているらしい」ということがわかってきたのである。
このように不確実さに対応する働きとしての感情は、必ずしも「火成論(火山の爆発のようなもの)爆発的ものだけでなく、
「水成論」敵な、継続的で穏やかなプロセスも含んでいるのである。

⇒ なーるほど。不確実な世界を生きていくために無くてはならないものが感情なのか。理性ではなく。ふーん。そうか。
  わかったようなわからないような、でも心に響き、いい気持ちになった。

「最初のペンギン」
ペンギンは、氷雪の上に棲んでいる。地上にはえさになるようなものはない。
海に飛び込んで魚などの餌を捕らなければ、飢え死にしてしまう。
しかし、海の中にはオットセイ、トド、シャチなど、ペンギンを捕らえて食べてしまう恐ろしい的も潜んでいる。
海に飛び込んで餌を捕りたいのはやまやまだが、食われてしまうことも恐ろしい。
できれば、他のペンギンが海に飛び込んで、安全だということが確認できてから自分は飛び込みたい。
まるで先に飛び込む順番を譲り合っているようなペンギンの可愛らしい仕草の背景には、
このような可愛らしさとはほど遠い理屈があるのである。
 ⇒ 衝撃だった。この事実は。

しかし、何時までも飛び込まなければ、餌が捕れずに死んでしまう。
餌が捕れるか、それとも食われてしまうのか、避けることのできない不確実性の下で、
いつかは決断し、飛び込む。
海の中に真っ先に飛び込む「最初のペンギン」がいるからこそ、群れ全体にとっての事態が切り開かれるのである。

英語圏では「最初のペンギン(first penguin)」と言えば、勇気を持って新しいことにチャレンジする人のことを指す。
そのような概念、それを表現する言葉があるといくことは、それだけ、不確実な状況下で勇気を持って決断する人が
賞賛される文化があることを示している。

 ⇒ 熱い気持ちがこみあげてくる。
   そうだ、自分はファーストペンギンだ。その心意気を強く持っている。
   誰も手を挙げなくとも手を挙げて挑戦する。その心意気はいつも持っている。
   義父が先日話をしてくれた。今、四Eの総務部長は親しくしているらしく私の話題が出るらしい。
   新入社員教育のときに人事課で世話をした記憶を語ってくれたらしいのだが(私は忘れてしまっていた)
   「志賀松君は、誰かやるものいないか?と言うと必ず手を挙げてくれた」
   それが強く印象に残っている。その思い出を語ってくれたらしい。
   これは嬉しかった。新入社員教育のときに、実践していたのである。
   いまでも、日本の原子力にとってよいことになる試行は全部引き受けてやるという気概がある。
   そういうことを伊方発電所でやりたいと思っている。
   それが結果的にコストダウンにつながりWin-Winになることを熱望している。
   四電だけ、伊方発電所だけでは考えたくないのである。


未来が見渡せないまま不確実性の海に飛び込むというのは、創造性の発揮において、人間がまさに行っていることである。
創造的な人間は、不確実な状況下で海に飛び込むという「決断」を下すペンギンと、生物の進化の歴史を通して
つながっているのである。不確実性に直面し、それを乗り越えるための脳の感情のシステムの働きを通してつながっているのである。


不確実な状況下で判断を下す時、私たちはある決まったルールや方程式に従っているわけではない。
不確実な状況下における私たちの直感を支えているのは、私たちの感じる様々な感情のニュアンスである。
一見とらえどころがないようにも見え、どんな方程式でも、どんなルールでも書くことができないように思える感情こそが、
不確実な状況の下で私たちの直感を支えているのである。

うまく生き延びるためには、不確実さに立ち向かい、乗り越えるための感情の技術を磨く必要がある。
そのことは、文明以前の原始時代でも、今日でも変わることはない。

「未知のものへのジャンプ」
創造することが、もし確実な前提条件から、すでに確立したルールに従って論理的な演繹を積み重ねていくことでないとしたら、
そこには何も新しいものは生み出されるはずはない。
コンピュータが基本的に新しいものを生み出せない理由が、まさにここにある。
創造的な人は、未知なものへの好奇心に満ちている。
 ⇒ 好奇心旺盛な人はとんがった人よりも私は重視します。
   好奇心を寄せてくれる人にはこの道場の情報を少しづつ見せてあげています。
   その人がまた新しい気づきを与えてくれることを知っているからです。

今まで誰も見たこともないようなもの、地上に今まで姿を現したことのないようなものを創り出すことが、創造することの醍醐味である。

 ⇒ そうですよね。鈴木さん


「確実さと不確実さのバランス」
ある場所に行けば食べ物があることがわかっている。危険な捕食者もいないと判っている。これは環境に中の確実な報酬源である。
しかし、その場所に行くだけで生きていくために十分な食べ物が確保できると判っていても、食べ物を与えてくれる他の場所を探し続ける必要がある。
なぜならば、たとえ今、確実な報酬源があったとしても、いつ状況が変わるか判らないからだ。
環境の変化で、今まであった食べ物が無くなってしまうかもしれない。自分よりも強力な動物がそこに現れて、食べ物を独占しようとするかも知れない。
危険な捕食者の群れが、どこからとなく現れるかもしれない。状況が変わって、今まで食べられていた食べ物が得られなくなっても生きていくためには、
常に新しい食べ物のありかを捜し求める必要があるのである。
 ⇒ 企業でも全く同じですねえ。

何がどうなるか判らない自然環境の中で生きている動物にとって、「既知の確実な報酬源」を利用することと、
「未知の不確実な報酬源」を探索することのバランスを取ることが何より大切である。

「不確実さを報酬として活動するドーパミン細胞」
確実な報酬と不確実な報酬を並べておくと、そのままではどうしても確実な報酬が優先される。
しかし、確実なことばかりやっていては生物としては先細りである。
確実な報酬源の利用と、不確実な報酬源の探索のバランスをとるためには、積極的に不確実性自体を好むように脳が作られていればよい。

50%の確率で報酬が得られる場合に最も喜びを感じるように出来ているようである。(実験による検証)
 ⇒ なるほど。丁か半かという世界だな。

不確実性がどれだけ高いかを評価するためには「エントロピー」という量で計算すればよい。
50%の確率条件は、この「エントロピー」が一番高くなるのである。
  
⇒ ほー、なるほどねえ。

どのような時にどれだけのドーパミンが放出されるか、すなわち、その人がどのようなことを「うれしい」と思うかということは、
その人の生き方自体に関わることである。
「ドーパミン・マネジメント」が人生を決めるのである。


「新奇性選好」
創造的な人ほど、目新しいものを見ると大いに興味を示し、眼をかがやかせる。

「不確実性とのかかわり方」
人間は、その不確実性と向かい合うことが、よりよく生きることに結びつくことに結びつくかもしれない可能性があるときに嬉しさを感じる。
もともと不確実性を好むという心の働きが、伊達や酔狂ではなく、厳しい環境の中で生き延びるという生物としての適応から生まれて
きたことを考えれば、それも当然のことであろう。その意味で創造性は、不確実性を乗り越えるために生み出した、生命作用の最高傑作なのである。


「探索のための安全基地」
自分の今置かれた状況の認識における心理的な安全基地が、積極的に探索する気分になるための必要条件となる。
愛着を抱くことができる保護者がいてこそ、幼児は心理的な安全基地を確保することができる。


「過保護でもなく、自由奔放でもなく」
脳は自発的な活動をする時にこそ、最大の能力を発揮する。
「精神的指導者(メンター)」と呼ばれる人間の存在が往々にして重要となる。(必ずしも現実に生きる生身の人間である必要はない)



第4章 コミュニケーションと他者

他人との予定調和を前提とせず、丁々発止のやりとりをする中で新しいものが産み出される
プロセスこそが大切である。(「共創(co-creation)」)
人と人のコミュニケーションが新しいものの創造のきっかけになることは多い。

それまでにないユニークなものを創造する行為は、自分が何者であるか発見する
「自己発見」のプロセスと結びつけられる。


相手の心を読み取る能力を「心の理論(Theory of Mind)と呼ぶ。
高度に発達した社会と文化を持つ人間の能力を考える上で、心の理論を支える脳のモジュール(ミラーシステム)は極めて
重要な役割を担っていると考えられる。他人の心の状況と、自分の心の状況をあたかも鏡に映したように共通のプロセスで
処理することによって、他者とのコミュニケーションを可能としているのである。


もともと人間は4歳くらいで自分が心を持った存在であるという「メタ認知」を立ち上げるが、それとほぼ同時に、
他者の心の存在に対する気づきも生まれる。

○ 良いソムリエの条件
異質なものとの出会いにこそ新奇なものが生み出される可能性がある。
良いソムリエが、客に合わせてそれまでにないワインについての語り方を生み出すことができるのも、人間の脳が自らの置かれた
現場の文脈を読み、それに合わせた情報を発信できる能力を持っているからである。

ソムリエは、ワインに対するコメントを、客と「共創」している。
その際の脳の動きは、ファインマンの伝記における大佐の判断と共通の部分が多い。
大佐が決断を下すことが出来たのも、ファインマンという他者が、理を尽くして迫ったからである。
他者の存在が、脳が新しいものを生み出すために不可欠な文脈を提供するのである。

○ 文脈に合わせて学習する人間の脳
世間で取り出されている早期教育と、モーツァルトが受けたそれの間には随分と差がある。
すなわちモーツァルトの場合は徹頭徹尾「現場」において鍛えられたという点である。


最終的に自分が活躍しなければならない「大人たちの現場」から隔絶された環境で、トレーニングやドリルをやってもダメなのである。
そのような人工的な設定には、最終的な創造の現場には満ち溢れている微妙な文脈のニュアンスが欠けているのである。



人間は様々な局面において無意識のうちに「ふり」をする存在である。
創造性の発露の最高の形態のひとつは、自分自身が変わることである。
人間は、自らのおかれた文脈に合わせた「ふり」をすることで、自らを変身させ、新しいものを創造するのである。



子供と遊ぶことで多くを学ぶことができるのが、優秀なプロである。
子供の遊びにおいてしばしば大切となる、自ら遊びのルールをつくる「メタ認知」の能力は、創造性に大いに関係する。
創造的な天才とは、大人なみの世間知を身につけた上で、なおも子供のような部分を持ち続けられる人であると規定してもよい。



私たち人間は、自らの置かれた生の現場における文脈を引き受けて、さまざまな「ふり」をすることによって自己を確立していく。
そのような個別の「ふり」を通して、普遍へと到達する。



人は、他者との関係性を通して、自らを確立していく。その意味では、生の現場の文脈を引き受けて何かを行為は、絶えざる自己修練の
プロセスに似ている。人々が時に芸術家の語る人生論に耳を傾けたくなるのは、そのためであろう。
別に、芸術作品を作り出したいというわけではない。ごく当たり前に、よりよい人生を送るために、芸術家の話を聞きたいのである。



第5章 リアルさと「ずれ」

新しくこの世に生み出されるものは、しばしばブザマで、ぎこちない様子をしている。

「醜いアヒルの子」は、創造のプロセスの初期段階がどのように見えるかということの真実を衝いた寓話であるかも知れない。



ロボットにしろコンピュータにしろ、現時点で創造的なぎこちなさを示すものはない。人は、興味深いぎこちなさの中にこそ
新しいものを生み出す自然の自己組織化の現場を見るのである。

あまりにも多くのレディ・メードの標本に私たちは囲まれて生きている。
だから今日、真の意味で創造的であろうとする者は、ぎこちなくなることを運命づけられる。


○「ずれ」を通して学習する脳
私たちの脳の中にある図式と、世界の中の現実とのズレこそが、私たちが創造的であり続けるために必要な栄養なのである。


「スモール・ワールド・ネットワーク」が実現しているはずのインターネットだが、実際には細かくゾーニングされた蛸壺的コミュニケーションが
並行する傾向が強い。

ノードを経由してやってくる様々なものの消息が、新生児にとっての世界のごとく新鮮で、魂をゆさぶるものとして立ち上がって初めて、
「スモール・ワールド・ネットワーク」としてのインターネットはその本領を発揮するのである。


○自分自身とのズレ


自分自身との「対話」を通しても、ズレの感覚が生じることがある。
私たちの脳は、そもそも出力を行う環境なしでは情報のループが完成しないような構造をしている。
たとえば自分が何をしゃべりたいのかは、実際にしゃべってみないとわからないことが多い。
私たちは脳から外に出力して初めて、自分が何をしゃべりたかったのかがわかるのである。

→ 書くことも同じだと思う。


私たちの脳のアーキテクチャーは、どうやら、外界へいったん出力して、それを感覚として入力することなしでは
情報のループが閉じないように出来ている。

○ 実際にやってみることの大切さ
外部との交渉を通して体験される「ずれ」こそが、私たちの魂の成長の糧である。

コンピュータには基本的に外部性が存在しない。


自分の頭の中で「こうなるのだろう」とあらかじめ予想することができない他者、外部と接することは、
ある意味ではしんどいことである。しかし、そのしんどいことを敢えて行い、さまざまなノイズ、ずれに接することでしか、
人は創造性に必要な刺激を得ることができない。

フランスの思想家ヴォルテールの言葉
「私は君の意見に同意しないが、君が意見を表明する権利は命をかけて守る」

自分とバックグラウンドが異なり、異質な意見を持つ他者と向き合うことはつらいことである。
しかし、そのような他者の存在を許容し尊重することが、巡りめぐって自分の創造性を涵養するために大切な「外部性」を提供する。

→ 私は意識、無意識のうちに外部性を求めているようである。
  このフレーズはいたく気に入った。

○ 無意識との付き合い方

歩くことはしばしば発想を助ける。見慣れた道を歩いている時、人間は感覚遮断に近い状態に陥る。
もう何回も歩いている道には、特に注意を向けるべきものもないからである。
そのような時、無意識が、意識に対する外部性を提供するものとして登場する。
歩きながら自分の中から浮かび上がってくる様々な想念は、感覚遮断タンクに入れられた時に見える様々な幻覚の、
抽象思考ヴァージョンと言えないこともない。
それぞれがユニークな心を持った、他者とのふれあい、どのようなものをもたらすか判らない環境との相互作用。
そして、何が飛び出してくるのか判らない、時分の無意識とのやりとり。
意識が時分でコントロールできないものたちと出会うことによって初めて新しいものを創造するために必要不可欠なノイズ、
ずれを得ることができるということは、人間という存在の本質を考える上で避けて通ることのできない論点である。
だからこそ、脳は、いったん外界に情報を出さなければ、自分自身とのコミュニケーションでさえ完結できないという
アーキテクチャーになっている。「外の世界」の表象を創り出すことならば、宇宙空間の中に孤立した培養液の中の脳に
とっても可能であろう。しかし、自分の魂の糧になるような外部性を獲得することは、身体を持った脳が広い宇宙で他者と
行き交うことなしには不可能なのである。偶有性の宇宙の中にこそ、私たちの生きるべき荒野がある。

→ 最後の偶有性の宇宙というのがよくわからない。



第6章 感情のエコロジー

感情は、この世界に生きるということに必然的に伴う不確実性に対処するために、脳が長い進化の中で作り上げてきた仕組みである。
創造性を支える直感や判断、インスピレーションといった脳の働きの背後には、感情がある。


破滅する可能性のない存在には、創造する可能性もない。


死すべき人間だからこそ、創造性を持つ。だとすれば、もし人間が神の似姿だとしても、
神の創造性の根底と、人間のそれは全く性質を異にすることになる。

○ 苦しみの効用
難しいことに挑戦しているときには、チャレンジする歓びとともに、脳の中になんとも言えない苦しさの感覚が生じるのが通例である。


脳が苦しいと感じている時には、神経細胞が盛んに活動し、多くのエネルギーが消費され、シナプスがつなぎ替わっている。
難しい課題をこなしている時には、右の前頭葉の領域の活動が活性化することが知られている。


脳がつらい経験をしているのを我慢し、それを乗り越えて気がついたら自分が新しいスキルを身につけていたという「成功体験」を
積み重ねれば、積極的に苦しみに耐える意欲が形成すれるようになる。
この意欲が、否定的な感情を含めた感情のエコロジーを耕す上で役立つ。

○ 退屈の効用
もともと脳の創造性は、世界との行き交いにおいて空白の領域がなければ生まれない。
J・C・リリィの感覚遮断タンクにおいて、脳が様々な幻覚を創り出すのも、そこに空白があるからである。
散歩をしたり、お風呂に入ったり、トイレに入っているときに何かを思い思いつくことが多いのも、
脳がオンラインの情報処理をしなくて済むからである。
朝から晩までずっとオンラインの情報処理に忙しい人は、優秀な実務家になれても創造者にはなれない。



文脈を引き受け、そこから離れるという文脈オン/オフの往復運動の中にこそ、人生の愉しみがあり、創造性の秘密がある。

○ウダウダ生きることの効用

○笑いを通じて知る世界のリアリティ
笑いは、警戒心や恐怖心と表裏一体である。

○魂の危機と創発
危機(Emergency)と創発(Emergence)の語源が同じであるということには、深い意味がある。
この世界に成功を保証されている人間は一人もいない。一寸先は何が起こるか判らない。
未来はまさに、言葉の真の意味で不確定である。


第7章 クオリアと文脈

→ この章になってくると言葉自身に慣れていないのでよくわからない。
  クオリアとは感覚質となっている。ムムムである。
  この章は筆者がフロー状態で一気に書いた感がある。
  本人は一番好きなところだろうが(サブタイトルに「この私」というクオリアへ となっている)、
  私には残念ながらよく理解できなかった。

愛することからしか、創造は始まらない。
クオリアはスローメロディ
高度に文脈化されたインターネットに覆われた現代

… 
芸術作品に限らず、私たちが日常体験する様々なものの質は、どのような言葉にも文脈にも回収されないユニークなクオリアによって決まる。
このような立場を「クオリア原理主義」と呼ぶことにしよう。


→ ここはもうやめておこう。


第8章 一回性とセレンディピティ

○一回性に宿る普遍性
一回しか起こらないことが、同時に普遍性に接続している。一見矛盾するように見える事態の中に、人間の創造性の不思議な性質がある。

○一回性を愛おしむこと
人生の中で忘れられない思い出があったとしても、無理して二度繰り返そうとすべきではない。
一度だけでいい、一度でもそのようなことがあれば本望だ、という潔さこそが、人生をうまく生きるための智慧である。
そしてこのような一回性の経済学は、芸術の本質とも無縁ではない。

○ 変化しつづける脳
脳は機械的に正確に記憶を保持することは苦手であるが、その代わりに、記憶の変容を通して世界についての新しい意味を獲得する可能性を
得たのである。

○ セレンディピティ
偶然の幸運を生かす能力は、自分の心がけ次第で鍛えることができる。
この能力は、脳の偶有性の知覚と関連している。

創造性の最高の形態のひとつは、自分自身が変わることである。進化の過程で、厳しい生存競争の中で生き延びようと新たな形態へと進化してきた
生物の歴史は、最高の創造性の現われだと言える。
生きる中で一回性の出会いを積み重ね、そこに現れるセレンディピティを生命の躍動のきっかけにする。
脳の神経細胞の自発的活動が環境との行き交いの中に巻き込まれ、引き込まれ、意識では決してコントロールできない多数のシナプス結合の
変化の中に結合する。そのような日常の連続的な流れの中に、ある日ふと気がついてみると、以前とはすっかり違った自分になっている。
そのような自己の変化こそが、最も美しい創造のプロセスである。アインシュタインにとっても、相対性理論を生み出したことよりも、
その過程で自分自身が変化したことが一番の福音だったのではないか。


終章 個別と普遍
「コンピュータと生き物は違うでしょ!」と言い切る私たちの直感には根拠がある。

人間の脳は、任意のものの間を関係づける驚くべき能力を持っている。



以上でおしましです。最後までお付き合いありがとうございました。