「成功はゴミ箱の中に」
レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男-マクドナルド創業者

レイ・クロック、ロバート・アンダーソン/共著
 野地秩嘉/監修・構成 野崎稚恵/訳



これもプレジデントでの孫さんと柳井さんの対談特集から
読んでみようと思ったものである。

私は伝記ものが好きである。
小さいときも偉人の伝記は好んで読んだ。
だからこのレイクロック自伝もとても楽しく読めた。

ハンパじゃない生き方。
52歳で起業なんてゼンゼンウソだ。高校の時からすでにセールスマンをやっていたのである。
セールスとピアノ演奏。この2つ。
ピアノ奏者というのが意外だった。

学校嫌いで現場主義、信念を貫く。
マクドナルド兄弟とはマルチミキサーの販売途中で知り合うのである。
このマルチミキサーの会社も、紙コップ販売のセールスマンから企業したものであった。


あと伴侶たる女性のことが印象的。
3度結婚しているが最後に最愛の人と結ばれている。

エセル 35年 
 → ジェーン (ジョニが離婚してくれなかったので伴侶とした)
   → ジョニ(人妻であったが紆余曲折後に1969年に一緒になった。なんとレイは67歳)

○ 彼女(ジョニ)の美しさに驚いた。彼女も私も既婚者だったので、目があったときのときめきは
 打ち消さなければならなかった。だが私にはそれができなかった。
  彼女と一緒になるためにエセルと離婚。
  しかしジョニは離婚できなかった…。
娘と母親の説得に折れてしまったのである。

☆ 皮肉屋は、世の中のものにはすべて値段がついているという。
  私はそれはばかげた話だと思う。
  世の中には、お金で買えないものはあり、どんなに努力しても得られないものがある。
  そのひとつは幸福だ。つまらない話をさせて欲しい。
  ジョニ・スミスに会わなければ幸せだっただろうか?
  わからない。
  疑いなく、私は仕事に満足していた。仕事は人生そのものだった。
  しかし、彼女に会ったことで、自分に何かかが欠けていることを知ったのだった。
  だから追いかけた。彼女を手に入れるためには何もかも犠牲にしただろう。
  彼女のためならマクドナルドだってあきらめたかも知れない。
  お金は何の役にもたたなかった。
  私ができたことと言えば、彼女が私の元にくることを祈って待つことだけだった。


○ 生まれつき独身体質の人は存在する。でも私は違う。
  人生には伴侶が不可欠だと信じていた。
  だから私はジェーンに激しく惹かれてしまったのだと思う。


☆ アート(マルチミキサー発明者)の死によって、仕事以外の面でも大いに打撃を受けた。
  独身時代に彼と話しをしながら、ジョニについて、恋愛に取り憑かれた少年にように
  話していたことを思い出す。
  ジェーンとは幸せだった。だが、私が過去に心から愛し、今後も愛し続けるのは
  ジョニ一人だ。

 → この一文には驚いた。
   まさかこの後、ジョニと結婚することになるのとは思いもしなかったから。

--------------------------------------------------------


○ 未熟でいるうちは成長できる。
  成熟した途端、腐敗が始まる。

○ 私は常に顧客の立場に立ち、強引に売り込むことはしなかった。
  私の仕事は、顧客の売上を伸ばすことで、顧客の利益を奪うことではない。
  ( → WIN−WINが入っている )

○ コップも口も、滑らせると壊れてしまう。(祖父の口癖)
  ( → 私も気をつけよう)

○ 我々が「QSC&V(クオリティ、サービス、清潔度、バリュー)」という
  言葉を繰り返すたびにレンガを積み重ねていたとしたら、おそらく大西洋を
  横断する橋ができていただろう。
  ( → 愚直な繰り返し教育が本当に重要だと思う)

○ 人々は、私がマクドナルド経営を52歳という年齢で始めたにもかかわらず、
  瞬く間に成功を収めたことに驚嘆するが、実際にはショービジネス界の人々の
  ように、そこにたどり着くまで30年もの長い下積み生活があったのである。
  ( → これは本当にそう思う。冒頭で書いてある感想のとおりである)

○ 私にとっての収入とは、レジに入っている現金として考えるのではなく、
  ほかの道から来るものだ。一番良いのは、満足した顧客の笑顔として返ってくることだ。
  この価値は非常に大きい。その顧客は必ずリピーターとなり、戻ってきたときには
  友人を連れてくるからだ。

○ 私はマネジメントの権限を委譲するのに躍起になっていた。
  我々の店舗数は637となり、シカゴから全店舗を指導するのはもはや不可能だった。
  私は、職権というのは一番下のレベルにいる人の手にあるべきだ常に考えていた。
  店に一番近い立場にいる人間が、本部に指示を仰がずとも決断できるべきだと。

  ハリーが本部が下を締め付ける、独裁的な支配体制を取ろうとしたのに対し、
  私は職権は仕事とともにあるべきという態度を保持した。
  確かに間違った決断も犯してしまうだろうが、それが人々を企業とともに成長させる
  唯一の方法なのだ。
  抑えつけようとすれば、息が詰まってしまい、良い人材はよそへ流れていくだろう。
  私は自分自身のジョン・クラークとリリー・チューリップ・カップとの経験から
  この点において確信を持っていた。
  企業は、マネジメントを最小にとどめることで、最大の結果が生まれると信じていた。
  マクドナルドは今日では、この規模の企業にしては珍しく、最も組織課されていない
  企業である。そして、マクドナルドの経営幹部は、他のどの企業の人間よりも、   
  仕事熱心だと思っている。


  ( → 強く共感できるし、この信念をずっと強く持ちつづけたことが成功の要因のひとつだと
   信じる。そしてこのオーラと人を見抜く直感で非常に素晴らしい人材がどんどん集まって
   きたのであろう。)
 


 
○ 人生は絵画をペイントするのと違う。最後の一筆を入れて壁に掛けて楽しむものではない。
  マクドナルドの本部には、壁の至るところにスローガンが掛けてある。
  「ビジネスは立ち止まったら終わる。一人ひとり、常に成長を心がけよ」


○ ニクソンへの献金は失敗例。
  私の動機はニクソン支持というよりは、反ジョージ・マクガバンの立場からきていた。
  ネガティブな行為からポジティブな結果は生まれないという自分のポリシーに反しているとは
  当時気がつかなかった。

○ 税金逃れを目的としたチャリティ寄付を行わない。
  それは私のビジネス哲学に反する。
  私はマクドナルドに経費を要求したことは一度もない。
  私が言いたいのは、私は自分の金を有効に使うことを信念として掲げていことだ。

○ 大学には商学部をつくるまでは寄付をしない。
  大学はリベラルアーツについて学んでいる学生でごった返し、彼らは金稼ぎについては
  何も学んでいない。学士号だけで肉屋が少なすぎる。
  私はインチキなインテリが嫌いなだけだ。
  私は教育に反対してはいない。
  それどころか私には博士号がある。
  1977年6月にダートマスカレッジが私を人文学の名誉博士にしたのだ。

○ マクドナルドにおいての個人の成功物語とは、決して教育ではない。
  信念だ。これは私のお気に入りの説教へと続く。

  やり遂げろ ---------- この世界で継続ほど価値のあるものはない。
  才能は違う ---------- 才能があっても失敗している人はたくさんいる。
  天才も違う ---------  恵まれなかった天才はことわざになるほど世界にいる。
  教育も違う ---------- 世界には教育を受けた落伍者があふれている。

  信念と継続だけが全能である。


○ 「働くこと、働かせられること」を楽しめなければならない。
  ダートマスでのスピーチで若い学生たちに伝えたように、誰かに幸せを与えることは不可能だ。
  独立宣言にもあるように、唯一できることは、その人に幸福を追う自由を与えることだ。
   幸福は約束できるものではない。それはどれだけ頑張れたか、その努力によって得られる。
  その人次第のものなのだ。
   幸せを手に入れるためには失敗やリスクを超えていかねばならない。
  床の上に置かれたロープの上を渡っても、それでは決して得られない。リスクのないところには
  成功はなく、したがって幸福もないのだ。我々が進歩するためには、個人でもチームでも、
  パイオニア精神で前進するしかない。企業システムの中にあるリスクを取らねばならない。
   これが経済的自由への唯一の道だ。ほかに道はない。

○ 1984年弔辞
 レイは我々の心をつかんだ。
 彼には我々の才能を引き出す才能があった。
 レイは教えてくれた。
 彼は我々に、勤勉になれ、精進せよ、自分を信じよ、熱心に努力せよ、自尊心を大切にしろ
 と教えてくれた。


このあとはプレジデントに掲載された記事が2つついている。
ひとつは孫さんと柳井さんとの対談
もうひとつは柳井さんがレイクロックを総括している。

私がこの本で感じたことと柳井さんとは違う箇所で反応している。
それ強く感じたのであった。
柳井さんが引用している言葉は敢えて書かないこととした。


2007.3.30記