「これが答えだ!少子化問題」
赤川 学 ちくま新書
タイトルに惹かれた
今の少子化対策は何か間違っているのではないかという漠然とした思いがあった。
それをしっかり解明してくれる書ではないかと。
読んだ感想としては、主張にまったく違和感はなかった。
いかに今の政治、行政が事実に蓋をして、トンチンカンなことをやっているかということがよくわかった。
ただ最後の答えは正解かどうかはわからない。
とにかく実行が難しいのではないかと思われた。
主張は終始一貫している。
著者も書いているとおり、12年前に出版した
「子どもが減って何が悪いか!」
と時間が経過しても何も変わっていないから、言い続けるしかないということのようだ。
はじめに
本書がこれから論じるのは、
「地方創生、一億総活躍など、出生率の低下に歯止めをかけることを目的とする政策が、
国民の希望を叶えようとすればするほど、少子化対策としての実効性を期待できなくなる」
というパラドックスである。
第1章 女性が働けば、子どもは増えるのか?
一人当たりのGDP3万ドルを超える国を対象として調べてみると
「女性が働く社会ほど、出生率は低い」という傾向がはっきり読み取れる。
⇒謎解きは後の章で出てくる
⇒都市化が少子化をもたらす。これは世界の普遍的な傾向のようである。
それは直観的に正しいと思う。
第2章 希望子ども数が増えれば、子どもは増えるのか?
少子化の要因のほとんどは、結婚した夫婦が子供を産まなくなったのではなく、
結婚しない人の割合が増加したことにある。
⇒納得だ。その通りだ。
池氏によれば夫婦出生率の安定は、分子のブラウン運動(ランダムなゆらぎ)に似て、
⇒ブラウン運動??知らなかった。⇒https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E9%81%8B%E5%8B%95
「夫婦の子供数は他の夫婦の子供数の影響を相互に受けて変化する」という原理に従った、低出生行動(つまり夫婦単位の少子化)
の伝搬・拡散の帰結とされる。筆者にとってもこの理論的解釈は、きわめて魅力的に見える。
第3章 男性を支援すれば、子どもは増えるのか?
筆者自身は、低出生率・人口減少を前提とした公平な社会制度を構築することが社会正義の観点から必要であり、
出生率を高めるという意味での少子化対策を論じることにあまり意味はないと信じる立場である。
だが仮に百歩譲って出生率回復を目標とする立場を肯定したとしても、
「結婚したくてもできない」
「子どもを産みたくても産めない」
リアリティを強調するような少子化対策では、その有効性に限界があると考えている。
●ハイバガミー志向 (この言葉も初めて知った)
結婚相手となるべき女性が、
自分よりも経済的・社会的に有利な地位を持つと期待される男性との結婚を求める傾向を有する。
こうした傾向のことをハイバガミー(女性上昇婚)志向と呼ぶ。
山田昌弘氏がかつてパラサイト・シングル論で提起したのは、
低成長下でかつ女性の社会進出・男女平等が進む現代では、
生活水準に対する女性の願望を満たす男性の数が少なくなるがゆえに結婚数が減少するというメカニズムであった。
夫の教育年数が妻のそれと同じカップル 「学歴ホモガミー(同類婚)」 41.2%
〃 を上回るカップル 「学歴ハイバガミー(女性上昇婚)」 36.6%
〃 を下回るカップル 「学歴ハイポカミー(女性下降婚)」 22.4%
(2007年のデータ)
ここで注目すべきはハイポカミーがいかに少ないかという点である。
ホモガミをー男女平等の進んだ社会におけるハイバガミーの代替戦略とみなすならば、
結婚の8割がハイバガミーかホモガバミーに分類される。
地位の高い女性が自分よりも地位の低い男性と結婚するハイポカミー・カップル(芸能界用語でいえば「格差婚」?)は、
2割程度しか存在しないのである。
少なくとも、男女平等が進展した現代日本にあっても、ハイポカミーが増えているという予兆は存在しない。
女性におけるハオバガミーやホモガミー志向が薄れ、女性が自分よりも地位の低い男性を積極的に選ぶ時代が
到来しないかぎり、経済的に恵まれない男性を支援したところで、彼らの婚姻率が高まる可能性は少ないだろう。
☆ハイバガミーと格差対策と男女平等は同時に達成することができない関係になっている
少子化の最大の要因は未婚化であり、
その主原因が若年男性の相対的経済力の低下だとすると、
少子化の要因は、男女平等のもとでのハイバガミーの結果と理解できると匿名ブロガーKY氏(赤川氏絶賛)はいう。
これは、本章で筆者が確認してきた事実とも一致する。
すると、ここでありうる選択は、
A 女性が自分よりも年収の高い男性を選び続けることを許容して男性を経済的に優位にすることを最大の少子化対策とする(男女平等の放棄)
B 女性が収入の低い男性を主夫とすることを受け入れるよう責任の男女平等を迫る(ハイバガミーの放棄)
C 少子化の最大要因を放置する(少子化対策の放棄)
のいずれかとなる。
⇒ 赤川氏はC
格差対策(世帯単位の課税)や少子化対策(若年男性の経済的支援)を行おうとすれば、
女性の社会進出や男女平等に水を差す。
しかし女性の社会進出・男女平等を貫徹させるならば、少子化もしくは格差拡大を放置することになる。
つまり「男女平等・格差対策・少子化対策を成立させようとしても多くて2つまでしか得られず、
少なくともどれか一つを犠牲にせざるを得ない、というトリレンマがある。
さらにKY氏も正しく認識しているように、
ここではハイバガミーの存在が前提となっているので、正確には
「ハイバガミー・男女平等・格差対策・少子化対策にはクアドレンマ、すなわち4つの解を同時に実現することができない事態が存在する」
といえるかも知れない。
第4章 豊かになれば、子どもは増えるのか?
●豊かな国であればあるほど出生率は低い
日本では、都市部の出生率が低く、農村部で高い。
この傾向は少なくとも18世紀には成立している。
フランスの歴史学者・人類学者エマニュエル・トッド
どうも日本人は。結婚ということを厳密に考えすぎるように思います。
もっと気楽に結婚して、離婚して良いようにも思います。
そうすれば、もう少し子どもの数も増えるでしょう。
これは冗談ですが、比較的経済的に余裕のある男性が、妻以外の女性にも子どもを生んでもらったら、
少子化の問題なでおいっぺんに解決するのではありませんか(笑)
第5章 進撃の高田保馬―その少子化論の悪魔的魅力
⇒100年も前にしっかりした理論を発表していたことに驚愕と尊敬の念を持って書かれている。
「いつか高田のように、地べたを這うような虫の視点と、宙空から人間社会を眺めたような鳥の視点を併せ持った文章が書けるようになりたい。」
3つの基本的事実
1 一人当たりGDPの高い豊かな国は、出生率が低い
2 日本やアジアの大都市圏は、農村部や村落部に比べて出生率が低い
3 世帯収入の低い女性の子供数は多い。「貧乏人の子沢山」
西洋諸国における、貧富による出生率の差異は何に起因するのか。
それは大部分人為的出生制限にあると高田は見る。
そして出生制限が行われる原因として、「力の欲望」すなわち
「自己の優勝と比優勝の誇示とを欲する欲望」にその答えを求めている。
この欲望には2つの側面がある。
第一に、自分の栄達向上を図ろうとして、その努力の障碍となる産児数を制限すること、
第二に、産児になるべく都合のよい生活条件を与えて社会の高い地位につかせるため産児数を制限すること
である。
つまり自分や子どもの社会的地位を向上させるために子ども数を減らすというのでる。
社会の最上級では、福利がつねに生活水準を上回るので出生制限は起きない(金持ちの子沢山)。
逆に社会の下級にあっては、そもそも生活水準が低いので、出生制限は起きない(貧乏人の子沢山)
これに対して上級と中級では、福利の増進以上に生活標準が高まるので、出生制限が行われ、子ども数が減るということになる。
⇒理解できる。
高田は、社会が利益社会的、個人主義的になっていく傾向が出生率の低下をうみだし、
民族の衰退につながっていくと考えた。
日本では人口過剰論が優勢であった1926年に公表された「産めよ殖えよ」では、
知識階級の産児制限による出生率の減少、人口減少こそが真の問題であると指摘する。
人口減少が民族の根幹に関わるモンd内というのは、
現代の少子化対策も、深層では共有しうている概念と言えよう。
「国民皆貧」で少子化対策
高田は、少子化の処方箋として、利益社会化と生活標準の上昇を押しとどめ、
全国民が貧乏に自足すれば出生率低下を食い止められるという「国民皆貧」論を提案するのである。
⇒ 理論的には正しいと思うが現実的ではないなー。
1 豊かな国は出生率が低い
2 都市は、農山村や村落部に比べて出生率が低い
3 世帯年収の低い女性の子ども数は多い
4 歴史的には、豊かな階層の子ども数は多い
という、出生率をめぐって歴史的かつ現代でも確認できる基本的事実を、
理論的にすっきり説明する性能を備えている。
…
1〜4の出生率に関する基本的事実を統一的に説明する理論が他に存在しない以上、
高田少子化論の優位性・優秀性は明らかであろう。
我が国の社会学者が100年近く前に、世界的水準での出生率の低下や民族の勃興にまで目配りしうる議論を
提出しえている慧眼に、まずは驚嘆すべきである。
第二に、高田の少子化の発生に関する説明は、
現代の少子化対策を講じる人々の多くが見失ってしまったメカニズムに焦点を当てるものである。
それは、単純な物質的豊かさではなく、「力の欲望」が増進させる生活標準(生活期待水準)の高まりこそが
少子化につながるという社会学的ロジックであった。
手前味噌で恐縮だがこれは、筆者がかつて、子育て支援や仕事と子育ての両立支援や結婚支援など
現代の少子化対策が、これから結婚や子育てしようとする人たちの結婚や子育てに対する期待水準を不可逆的に高めてしまい、
かえってそれから遠のかせると指摘した現象、すなわち「期待水準上昇効果」を先取りする議論であったように思われた。
そもそも現代の少子化対策が想定しているのは、結婚や出産に伴う「機会費用」を埋め合わせれば、
結婚や出産に「インセンティブ」を与えれば、人(女性)は、合理的なコスト計算に基づいて結婚や出生行動を行うだろうという
「経済学的人間像」である。
第6章 地方創生と一億総活躍で、子どもは増えるのか?
増田寛也氏が「中央公論」2014年6月号で述べているように、
「地域によって人口をめぐる状況は大きく異なる。
人口減少を食い止めるために、
出生率向上に主眼を置くべき自治体もあれば、
人口流出の防止に力を注ぐべき自治体もある。」
この提言には見るべき点がある。
なるほど低出生行動を生み出す「蟻地獄」であるにもかかわらず、若い女性を引き寄せる大都市では
出生率向上に取り組んだほうがよいだろう。また若い女性に転出され続けてきた地方都市は、人口流出の防止に取り組みべきだろう。
●選択と集中は逆効果
増田レポートは、地方中核都市として選択されそうもない地域、すなわち中山間地域や規模市町村のほうが子ども数は多い、
という基本的事実を無視しているのである。
大都市や拠点都市よりも、小規模市町村のほうが子どもを産み育てやすいという事実。
増田レポートや地方創生は、こうした地域を「消滅」させて構わないという「選択と集中」の立場をとるので
全体としての出生率向上にはかえって逆効果となる懸念がある。
そのような地域では、
「夫婦二人で1.5人分稼ぐ」ライフスタイル、たとえば「半農半X」「ダウンシフト」と呼ばれるような生活や、
地元にこもり、家族や仲間を大切にしながら早婚で子どもを2人以上もつ若者たち、
すなわちマイルドヤンキーの生活世界が持続可能で、かつライフスタイルとして主流を占めていなければならない。
それは都会人の目からみれば、「貧乏人の子沢山」の世界に見えるかもしれないが、
必要以上に生活期待水準を上昇させず、その代わりに結婚に消極的な男女に「徹底的に世話をやく」コミュニティが
存在し、「近居」しながらイクジィが子育て支援しやすい世界であるかも知れない。
「経済学的人間像」の限界
人間はさほど単純ではない。
本書ですでに述べてきたように、出産や育児に対する社会的な支援は、それ自体としては否定すべきではないのはもちろんだが、
当事者たる女性の出産や育児に対する期待水準、すなわちよりよい出産、よりよい育児への期待を高めるだけに終わってきた。
政府が出産や育児を公的に支援すればするほど、現状の社会福祉的な少子化対策に対する不満をかえって強めてしまい、
いっそうの公的支援を求めるようになってしまうのである。
山田氏は、北欧やベネルクス三国など、社会政策を充実させて、中流階級からの転落リスクを低下させるという、
社会民主主義型・階層格差の拡大反転の方向性を提案している。
その上で、正規・非正規の格差是正、女性の安定雇用の拡大、社会保障の下支え、高等教育費の公費負担などの推進が、
「中流生活」の維持を可能にするというのだが、
これは現代の少子化対策が四半世紀以上かけて推進し、失敗し続けてきた道でもある。
ゆえに今後の日本社会に適用してもうまくいかないだろう。
☆ステルス支援
少子化対策を奏功させたいのであれば、以上高にならず、悲観も楽観もせず、静謐に、
誰もが等しく尊重される世の中で人々が生きられる世界を追及するべきなのだ。
選択の自由が保障され、経済の持続的な成長が確保され、
誰に対しても公平な制度を準備し、
誰もが等しく幸せに生きられる社会を作り上げることのほうが、
はるかに優先度の高い政策課題である。
⇒これって憲法そのものではないだろうか。
筑摩書房ぼHP
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069368/
赤川さんが指摘するように
恣意的なデータの選び方をして有効であろうとみせかけていて
実は何の効果ももたらさないる少子化対策に、
政府がなぜ必死になっているかというのは
そうしなければ社会保障が破綻してしまうからであろう。
赤川さんのいうように少子化は避けられないことで
その未来を描こうとしたとき、
その時にはは消費税大幅アップしか道はない。
安倍首相は消費税を先送りしてしまった。
その責任は非常に重いとしか言いようがない。