「天才」
石原 慎太郎 幻冬舎
【内容紹介】
幼少期のコンプレックス、政界入りのきっかけ、角福戦争の内幕、ロッキード事件の真相、田中派分裂の舞台裏、家族との軋轢…。
戦後日本の基盤を作り上げながら、毀誉褒貶相半ばする田中角栄の汗と涙で彩られた生涯を描く。
【著者紹介】
1932年神戸市生まれ。一橋大学卒業。「太陽の季節」で第1回文學界新人賞、芥川賞、「化石の森」で芸術選奨文部大臣賞受賞。
田中角栄のロッキード事件の裁判はアメリカの策略だったということを解説するものだった。
一人称で書かれたもので読みやすかった。字が大きくスカスカなのですぐ読める。
田中角栄の家は昔は資産家だったがお父さんが馬道楽で潰したようだ。
お母さんの上京の時の3つの格言
大酒は飲むな
馬は持つな
出来もしないことは言うな
「馬は持つな」なんて普通のお母さんは言わないわ。
昔何かの記事で読んだ、美術の愛好家で大パトロンの福島とかいう皮肉屋で大金持ちが、
人の付き合いは悪いが、町中で葬式に出会ったり死者を運ぶ霊柩車に出会ったりした時は、
必ず立ち止まり帽子を取って一礼するので、誰かが訳を質したら、
「たとえ見知らぬ者でも、その人間の一生の意味や価値は傍には計り知れないものがあるに違いない」
といったそうな。
なるほどなと俺は思ったものだったが。
(冠婚葬祭を大事にする角栄の気持ちが出ていると思った)
女性関係はたくさんあったようだ。
秘書の佐藤昭子は同郷、芸者の辻和子には子供が男の子が2人
真紀子の上に長男がいたようだが5歳で病死していることも知った。
日中国交復活を果たしたのは角栄総理でなければ成し遂げられなかった偉業であることも
理解できた。
それを理解できた石原慎太郎が都知事時代に尖閣を都で買収したことに違和感を持つ。
知事をやめてからこの本を書いたからであろう。
長い後書きにそれが書かれている。
私がこれを書くことになったきっかけは、私が政治から引退した直後に早稲田大学文化構想学部の教授・森元孝氏が
『石原慎太郎の社会現象学 - 亀裂の弁証法』という、
政治家であったがために不当に埋没させられてきた私の文学への救済となる労作をものにしてくれたことだった。
その著者への感謝のために会食した折に、氏が
「貴方は実は田中角栄という人物が好きなのではないのですか」と問うたものだ。
私はそれに肯んじた。
「確かに彼のように、この現代にいながら中世的でバルザック的な人物は滅多にいませんからね」。
答えた私に氏が
「ならば彼のことを一人称で書いたらどうですか。
私は貴方の一人称の小説『生還』や『再生』を高く評価しているものですがね」
と言ってくれたものだった。
言われて強い掲示を受けた気がしていた。