「人はなぜ失敗するのか」
ディートリッヒ デルナー (著), Dietrich D¨orner (原著), 近藤 駿介 (翻訳) ミオシン出版
シミュレーションゲームによって、企画の失敗が分析できているという画期的な書である。
非常に面白い。
英文のタイトルは 「the logic of failure」 失敗の論理である。
人は多変数の連立方程式を解く能力が不足しており、
どうしても主観で少ない変数だけで単純に解こうとする。
システム思考が不可欠である。
近年、我々の扱う問題は互いに密接に関連している複数の問題から構成されているので
その関連を踏まえなければならないのである。
このためにシミュレーションが非常に重要になる。
(宮田先生も主張している)
例題は3つ
1 西アフリカ・タナランドの場合
(失敗者)
最初は慎重に考察して決めているが、一旦決定した後はフォローがなおざりになり
新たな情報を集めたり、結果を考察しなくなる。
後の章では「自己肯定のための弾道的行動」とも言われている。
ある特定のことだけに夢中になり、他のことは見てみぬふりとなる。
あげくは「冷淡的態度」で無視してしまう態度になる。
自分が提案した仮説に固執してしまい、仮説を実体験の強い光に曝すことを避け、
仮説を支持する情報だけを集めたがる。極端な場合、事実を全く反映しない仮説を守るために、
巧妙で教条主義的な弁明を考え出すことすらある。
○ 状況に分析なしに行動を起こしたり、
二次的な影響や長期間の反作用の予測に失敗したり
(後述されているが時間変化を予測することに、人はどうしても線形で考えてしまう、時間遅れを想定できないなど)、
「プロジェクト」に過度にのめりこんで必要な方策を見逃して状況の変化に気付かなかったり、
うまくいかないときには冷笑的な反応をとりがちであったりした。
2 イギリス・グリーンベルト市の場合 (添付図6、添付ページ42,43p)
(成功者)
肝心の問題があるかを慎重に判断して、これに早くから対処し、より複雑に対処している。
(失敗者)
その場主義の不安定思考が失敗に導く。
仮説の検証に十分時間をかけていない。
事象の裏側にある因果関係まで考察せず、表面に現れる事象に直接反応。
☆失敗者は、簡単に解けない難しい問題にぶつかると、その問題を放り出して別の問題に移ってしまう傾向にあった。
「論点の横滑り」
別の問題とは簡単な問題である。
市営のジムに用具の不足があるという報告があると、市にとって重要な時計の売上を伸ばすという難問を放り出し、
鉄棒と平行棒をいくつ用意するかというつまらぬ議論にとりかかってしまうのである。
成功者は継続性が高いのである。
◎ 決め手は絶ゆまぬ自己啓発と責任の自覚
成功者は頻繁に自己の行動を反省し、厳しく自己批判を行って、悪い点があれば修正しようと努力した
失敗者は単に行動を要約するにとどまった
計画段階だけでなく
失敗者は困難な問題に直面した時に、しばしば誰かのせいにしようとした。
言い逃れ、責任転嫁の行動。
この行動は、知性では差がない。
不確実な事柄にどれだけ余裕をもって対応できるかが重要。
● 困難な問題を他人まかせで逃げ出したり、問題を解決したつもりになったり、
新しい情報が入ってくるとそれまで取り掛かっていた問題からすぐに注意をそらしてしまったり、
解決すべき問題は放っておいて解決しやすい問題から着手してしまうこと、
自分の行動の反省を渋る姿などから、
己の無力さや絶望を認めるのを嫌って、確かで安全なところへ逃避する傾向を見てとれる。
→ 耳が痛いが、こいういうゲームをやってみたいと思う。
3 チェルノブイリ事故
チェルブイリはシミュレーションではなく実例として取り上げれていたのには驚いた。
これは、いつもルール違反を犯して楽をしていたこと。
それで今回もイケルだろうということが根本原因とされていた。
系統からの要請で送電停止が延期され50%出力で維持されたという事実は
私はこれを読むまで認識していなかった。(お恥ずかしい限りである)
キセノン振動のため状況が変わっていた(出力が出ないので制御棒を引き抜いていた)のである。
第2、3章 意思決定者に要求されること、目標設定
◎ WHATをはっきりさせる
「よりよい生活の質」とかで表現しても何をしたいのかわからない。
具体的で明確な目標を持つこと
私の部屋を快適にしたい
歩行者に優しい街作り
図書館の利用者を便利に
これらの目標は不明確である。
このような発言をする人は、どういう状況が望ましい状態であるか正確にわかっているわけでなく、
ただ現状を変えなければならないと思っているだけなのだ。
→ 耳が痛い言葉です。はい。
システム変数間に相互依存あり 正の結合、負の結合
人は自分が抱えている問題に関心を集中し、まだ自分が直面していない問題には関心を示さない。
その結果、分野Aにおける問題を解決することにより、別の分野Bに問題を生じさせる可能性を見逃してしまいがち。
「中間的目標」の設定で柔軟に対応する
「多面的な問題」は、問題のリストを調べて相互依存性を決定し、順位付けする
「多面的な問題」は、他人の委託してもよい。丸投げと委託は違う。委託は責任は自分で持つということで問題を頭から消していない。
全体の中でどういう位置をしめているか意識しつづけている。 →そうだ!
「暗黙の目標」を避ける
● 「修理屋の行動」が引き起こす間違い
グリーンベルの市長(上記シミュレーションゲーム)に与えられた目標は「市民の幸福」であった。
この目標は行動の指針を立てるには全く役立たない。
幸福について明確な考えがないと、修理屋の行動に出てしまう。
市長として市民の声を聞く。
ある婦人は犬の糞、別の人は役人の仕事の遅さや老人へのサービスの不満、
図書館についての不満を言う人もいた。
このよにでたらめに並べられた不満をもとに行動する市長は、あまり重要でない問題に神経を集中しすぎ、
本当に重要な問題を見逃したり、その重要さにきづかない危険をおかす。
そうした市長の結末は、人々が持ってきた問題を片付けるだけの「修理屋の行動」である。
目立つ問題がある時には特にこの問題が顕著である。
交通事故では軽傷者の方が重傷者の苦痛よりも目立つことがある。重傷者は声も出さないし助けを呼べないからだ。
その結果、小さな助けしか要らない者に全てが与えられ、大きな助けが必要なものに何も与えられないことが起こりうる。
ある女性市長役は、学校問題にすべてを集中した。最後には14歳の少年の問題にかかりきりになった。
この市長は自分の能力を基準に問題を選んでしまった。彼女は解決しなければならない問題ではなく、
解決方法を知っている問題の解決を選んだのである。
→ なるほどねえ。こういう事例は現実にも多々あるように思える。
問題の本質から目をそらしてはいけないですね。
ただし全く不合理というわけでもないと最後にコメントしている。
何もしないよりは、何かしら不具合を直すほうがましだからである。
第4章 情報とモデル (添付ページ116,117)
第5章 時間的な展開
● 人は指数関数的な増加を予測することが出来ない。 (添付図20,21)
● 人は時間遅れをうまく予測出来ない。
第6章 目標達成のための計画
政治状況ゲームで高い精緻度指数を記録した参加者は、モロ族の経営シュミレーションゲームでも
成功をおさめていることを示した。平均的に見て、彼らは低い精緻度指数しか得られなかった参加者よりも、
破局や破局に近い状況を作ってしまうことが少なかった。これから精緻で条件限定の強い計画の作成能力は、
理由はともかく、複雑な行動シミュレーションゲームで成功を収める能力と直接関わっているように見える。
精緻度指数 : 参加者の施策がどれだけ練られているかの程度。
目標と目標を達成するための手段が、どれだけ特定的に記述されているかを表す。
もし記述が双方とも詳細ならば、その施策の精緻度指数は2と評価される。
→ ゲームでその能力が判定できるとすれば非常に有効ではないのだろうか。
私はどうもこの精緻度指数はあまり高くないように思える。
○ 自己肯定のための「弾道的行動」
大砲の弾は弾道的。いったん発射された後は、我々はそれに影響を及ぼすことは出来ない。
ロケットはパイロットの制御、あるいは遠隔制御の下、規程された軌道から外れたときには変更される。(フィードバック可能)
一般的に行動は弾道的であるべきではない。
我々の現実の把握は部分的に過ぎない可能性があるので、打ち上げた後に行動のコースを調整する必要があるからである。
そのために、自分の行動の結果を分析することは決定的に重要。
しかし、人は弾道的態度を取ることが優勢である。
それはシミュレーションゲーム(実験)のデータから明らかに示されている。
効力を確認したいという欲求は増えそうなものだが、決して大きな比率にならない。
合理的な人が、完全には理解困難なシステムに直面した場合、そのシステムについて学ぶあらゆる機会を利用して、
「非弾道的」に振舞うと思っていたのに、そうはなっていないのは妙である。
しかし、とにかく、実験の参加者は、大砲の弾のように決定を撃ち放ったきり、
その弾がどこに着弾するかについてほとんどおかまいなしなのであった。
奇妙だと我々は思う。
しかし説明は直ちにつく。我々が自分の行動の結果を見なければ、自分の能力に対する錯覚を常に維持することができる。
もし、我々がある欠点を正すべく行動すると決定しても、
その結果を決して確認しないとしたら、欠点は修正されたと信じることができる。
そして新しい問題に向かうことができるのだ。
弾道的行動には、あらゆる説明に責任を持つことから我々を解放するという大きな利点がある。
だから、状況が不明確であればあるほど、我々は弾道的行動によって能力に対する錯覚を補強しがちになる。
そうすることにより、混乱しているという感覚を低下させ、自分の能力に対する信頼を強化するのである。
○ 否定的結果を回避するその他の方法
弾道的行動だけが、自分の行為の否定的結果に直面することを避ける唯一の方法ではない。
「外的帰属」(心理学用語)がある。
我々はいつでも「私は一所懸命やろうとしたんだけれど、状況が悪くてやりたいことが出来なかった」と言うことが
できるのだ。「状況」、特に悪意に満ちた陰険なやり方で、我々の最高の努力を妨害し、邪魔する「悪の力」は
いつでも顔を出すことができる。
「目標を逆にする」
我々は「黒」を「白」と言いくるめる。
この実験では、政策エラーによる飢饉の発生を、たとえば、
「この飢饉は人口構成を改善することになる」という理由をこじつけることである。
事実、そういう被実験者が何人もいた。
「重要でない条件の付加による免責」
施策Aが施策Bを生むはずなのに、そうならなかった場合に、
たまたまそのとき出てきた特定の条件においては施策Aは別の効果を持つものとしてしまえば、
計画や能力の破綻は回避されるからである。
このように、人は自分の計画失敗を素直に認めようせず、いろいろな行動を取りのである。
これはあくまでシミュレーションゲームからの考察であるが、こういう行動パターンは現実にも
いくらでも遭遇する。
第7章 失敗を避けるためにできること
複雑な問題を扱う際の人間の思考過程の不適切な行動のまとめ
・ 目標を具体的な言葉で表現できない
・ 目標が互いに矛盾することに気がつかない
・ 目標の優先順位を明らかにできない
・ 事態の時間的な展開をうまく扱えない
・ 自分の誤りを正すことができない
こういうことを引き起こす心理的要因を分類
○ 思考の速度が遅いから手間を省きたがる
○ 誰しも自分には解決能力があると思いたがる
○ 情報の取り入れ速度が遅い
○ その場しのぎの状況の虜
複雑な問題を扱うのに失敗する理由は、
我々の思考過程は遅く、
一時に処理できる状況はわずかであること、
我々は問題を自分で対処できると思い続けたがること、
我々の記憶が受け付ける情報量は限りがあること、
差し迫った問題だけに集中したがること
にある。
これを避ける対策
○ 操作の知識を取得する
○ 操作知識の教育
○ シミュレーションによる疑似体験で「バランス」を習得
最後にシミュレーションの活用を謳っている。
これらを本当にすべて学ぶことは不可能。
現実の世界では、我々の誤りが関与する時間と空間の広がりを考えて、まず無理である。
そこでシミュレーションなのである。
コンピュータ上では時間が早く進むし、距離の問題も全くない。
我々の意思決定の結果を明らかにしてくれるし、それから我々は、
現実世界に対する高い感度を開発することが可能になるからである。
間違いは認知につきものである。
しかし現実の複雑な問題を扱っているときに、間違いと指摘するのは難しい。
現実には、危機はそうしばしば起きるものではないから、
個人がある危機で得られた経験を、同種の別の危機に生かせることは期待しがたい。
結果として、差し迫った状況を扱う際に起こる間違いは、その後ほとんど生かしようがないのである。
しかし、シミュレーションは人々を類似の危機に何度も遭遇させ、
参加者に、そうした特定状況に対する感受性を研ぎ澄ます機会を与えることができる。
【まとめ】
システム思考が独立した能力ではなくて、いろいろな能力を束ねた一つの単位であり、
その核心は、与えられた状況に常識を適用する能力である。
状況は常に変化する。ある時はこの要素が、またある時は他の要素が重要となる。
我々はシミュレーション上で、さまざまな要素を課してくる様々な状況を、どう扱うか学ぶことができる。
また、時には人をある状況に置き、次には別の状況に置いて、その振る舞いについて話し合うことで、
この技術を教えることも出来る。
現実世界では、とてもそのようなことができない。
今日、我々にはこの種の学習と教育を行う機会があり、
そのつもりになってやってみることは、実際の状況に備える重要な方法である。
我々はこれを上手に利用すべきである。
今やそのためのよい道具があるのだから、これを上手に活用すべきなのである。
(感想)
私の何か複雑なシミュレーションゲームを探してやってみようと思う。
おそらく、失敗の論理に指摘されている行動をとってしまうような気がしている。
企画・計画はどうしてもOJTの機会が少ない。
そして失敗しても誰も認めない。
だからこそシミュレーションしかないのだろう。
何かいいゲームはないかな。
(参考)
「企画変更の不作為」
「失敗百選」 中尾 政之 東京大学大学院教授 森北出版株式会社 より
「製造・検査系」の失敗が「企画・開発系」の失敗よりも大幅に知識活用されていることがわかった。「企画・開発系」の失敗は、一般に実施期間が長期で、原因が組織的で、効果が遅効で、件数が少数である。つまりフィードバックがかかりにくく失敗知識が扱いにくい。それに属人的で、失敗の原因究明は直接に特定人間の攻撃になりやすい。たとえば、初代プロジェクトリーダーが会社の常務にでもなっていれば、大きな失敗とは誰も言えず、もちろん失敗の数のなかにも入らない。
さらに国は一度決めたことを「失敗でした。中止します」とは決して言わない。官僚は2年間でジョブローテーションするから、その間は少なくとも成功とも失敗とも決めずにいれば、次の職場に栄転できるかも知れない。とにかく不作為を決め込む。そうこうするうちに、社会環境が変化して決定時の前提がものの見事に崩れて、誰がみても失敗だったとわかっても、最初の決定は絶対に変えない。しかも、誰も失敗と言わないから失敗自体が存在しない。筆者は企画の失敗データを集めたかったが、それはとても難しかった。
企画が失敗すること自体、しかたがない。普通は、企画当初に設計した制約条件が変化する。
…(中略)
その制約条件が誰がみても変化しているのに、企画変更しないのは明らかに悪意がある。 悪意というのが言い過ぎならば、勇気がないといえよう。自分たちがエイヤッで想定したホラのような制約条件を、そのうちに真実のように信じきることも人間にはできる。この製品は絶対に売れるんだ、この設備は絶対に役にたつんだ、とNHKのプロジェクトXの主人公みたいに信じることは美しいが、撤退すべきときに撤退しておかないと、新規事業だけでなく全体の活動自体が全滅することもありうるのである。