「なぜ起こる鉄道事故」
山之内秀一郎 元JR東日本会長
朝日新聞社
日本原子力技術協会の講演を聞いて感動したJR東日本の関口さんに
伊方発電所での講演をお願いしに行ったところこの本をプレゼントしてくれた。
以前に出版されていたものを、最近単行本化されたものであった。
JR西日本の事故の直後に出されていたので巻頭に山之内さんの信念のコメントがあった。
◎ 安全に対する企業風土とは、何よりも経営者の安全に対する本当の理念と実践によってつくられるのである。
この本を読んで感激した。
関口さんのお話しは山之内イズムが浸透していたんだと理解した。
東大工学部卒業後、国鉄に入社した山之内氏が自らの体験、そして安全哲学をしっかりと述べられている。
基本は人はミスをおかすもの。誰もミスを起こそうと思っているものはいない!
人間への優しさを感じた。
この前提にたって、いかに安全を構築するかはトップマネジメントであるということ。
お題目ではなく心の底からそう思い、それを行動で示さなければ安全は達成できない。
その山之内さんの哲学の背景にあるものがよくわかった。
最初は鉄道の歴史編。
1830年 リバプールからマンチェスターへの処女列車が運行。
そんなに古かったとは知らなかった。
そのころはブレーキの重要性も認知されておらず、したがって信じられない事故が
数多く起こった。安全というのは過去のこうした犠牲の上に築かれてきたものだということを痛感した。
原子力では安全設計が当然(私は安全設計を担当した)だが、その設計概念というのは、
19世紀に起こったこのような鉄道の大きな事故や災害の経験のおかげで出来上がってきたものだということを初めて知った。
山之内さんは安全システムの整備が不可欠という持論。
これは失敗百選の読書後記にも書いた。ここに引用する。
全体にわたっての筆者(中尾政之氏)の主張は、失敗を犯してもそれが大きな事故に至らないように
システム的に対処することである。
これは山之内さん(JR東日本)の「なぜ起こる鉄道事故」にもあった哲学である。
人間はミスをやろうと思って犯すのではない。だから、起こってしまったミスをいかに教訓として、
同じミスが起こらないように、起こっても大丈夫なように(フェールセーフ)してゆくことなのである。
実は私自身が電中研原子力情報センターへ出向中(30歳前半)にまとめた「国内原子力発電所のヒューマンエラー分析」
でも同じことを言っていたのである。
理科系の人間はこのような発想になるのであろうか。
管理ではなくシステム設計で可能な限り対処するという考え方である。
山之内さんのJR西日本事故に対する主張部分を引用すると、
人間はミスをする生き物であり、時には反抗もする。
そうした人たちを含めて安全を守っていかねばならない。
理由はともかく今回のように一人がミスするだけで、乗客や企業を地獄に導きかねない。
特に安全上重要な部分については人間のミスを守れるきちんとした安全システムの整備が不可欠だと思う。
本編にも述べたが、新幹線があれだけ安全なのは優れた安全システムのおかげなのである。
そして、今回の事故の前に予兆はなかったのか?
スピードオーバーが日常化し、列車ダイヤの無理が顕在していなかったか。
日常的に起こる小さな事故の中から、大事故の予兆を捉えて防いでいかねばならない。
これが安全対策の基本なのである。
山之内さんは最後にこんな言葉でも言っている。
私は小さいけれども危ない事故や、運良く大惨事にはならなかった大事故は
「天による執行猶予だ」と考えている。
そこできちんとした対策をたてなければ実刑になる。
安全対策に終わりはない。
そしてビジョンと哲学も必要なのである。
つめるところ安全はトップマネージメントの問題なのである。
信念の哲学だと思う。おっしゃるとおりだと強く思う。
この本を松浦祥次郎原子力安全委員長にもお薦めしたところ既に読まれていて
以下のような返事をいただいた。(さすがです)
> 松浦祥次郎(2006−04−04)
山之内秀一郎氏の「なぜ起こる鉄道事故」は、出版後、直ぐに買い求め読みました。
「これは!」と感嘆し、ちょうど設けようと考えていた「原子力安全委員会政策評価
会議」のメンバーになって頂くよう山之内さんのところへお願いに行きました。それ
まで一面識もありませんでしたが、お忙しい中お引き受けくださり、その後4年にわ
たり貴重なご意見を頂くことができました。お話している間に偶然わかったのです
が、山之内さんは日本原子力技術協会の石川理事長と東大機械の同期生でした。また
小生は原研のJPDR以来40年、石川理事長とはスキー仲間です。そして志賀松さ
んも、技術協会の活動に手を貸しておられるようですね。まことに世間は、特に原子
力界は狭いものです。
松浦委員長は4月17日付けで退任された。
実にギリギリのところでのメール交換であったと、その人事を知って
よかったと思った。
よいと思い立ったらすぐに行動せねばならない。そう感じた。
以下この本の内容を順に書いていこう
○ 安全目標
なんと定量的安全目標が示されていたのには驚いた。
1975年「交通安全システムの安全度評価」井口雅一東大工学部教授
1時間当たりの死亡率が10E−8以下の状態を安全領域
10E−7〜10E−6 注意領域
10E−4 忌避領域
1970年代では自動車が2.6×10E−7
航空機 2×10E−7 に対して
鉄道は 6.5×10E−8と一桁低いレベルを達成
歩行者の1時間当たりの死亡率は1×10E−7であり、歩いているよりも鉄道に乗っている方が安全?
最近10年では2.9×10E−8と半減してきている。
列車に乗っていての死亡率だけなら6×10E−10と安全領域。
交通事故1.2×10E−7
航空機は国内では1985年以来ゼロ 世界では2×10E−7
鉄道が一番安全な乗り物である。
なかなか説得力があった。
原子力で安全目標が決まらないのは、交通のように事故死ではない、放射線影響による死亡を考慮しなければ
ならないためであろう。遅々として進まない原子力の安全目標(炉心溶融事故の発生頻度)を思いながら
この最初に書かれていた危険度の数値に引き込まれたのであった。
○ 鉄道の歴史は事故の歴史
多数の犠牲者を出す大事故の教訓とその対策の蓄積が、今日の鉄道の高い安全性を築いた。
その過程には自らの危険をかえりみず、人や物を運ぶという使命に燃え、新しい技術に挑戦
していった多くの人々がいた。
こういう人々には、普通の人々にとっては危険極まりない「忌避領域」こそ命を賭けた「挑戦領域」
なのだった。
新しい技術というものは安全第一で進歩することは難しい。
冒険野郎どもの挑戦が必要なのである。
そして技術の進歩。
日本では1872年新橋−横浜開通以来3800人の方が鉄道事故で亡くなられた。
世界では大雑把にいって8万人。
この尊い犠牲の基に現在の安全が実現された。
この後40ページにわたって初期の事故が解説されている。
走ることに主眼がありブレーキの設計ができていなかったり、
信号システムがない、木造であるため火災が必ずついて回ったことなど。
もう危険極まりない乗り物であったことがよくわかる。
これを技術革新とシステム設計によって克服していく歴史がよくわかった。
WH フェールセーフのブレーキ設計
1837年 電信機の発明をすぐに利用
鋼鉄技術の進歩 1850年製鉄技術の革新
○ 安全に対する価値観の相違
山之内さんが触れている当時の価値観が違うという以下の記載はさもありなんと理解。
鉄道会社も新しい路線の建設や列車のスピードアップには熱心だったが、安全システムの整備には
消極的だった。この時代の鉄道経営者たちは文字通り利益追求主義だった。
19世紀の時代背景がそうであったし、人間の生命に対する価値観も現在とは全く異なっていたに違いない。
自然災害は多かったし、炭鉱や海運業など他の産業でも危険の度合いは現在とは比較にならないほど高かった。
安全に対する社会の価値観が違っていたのである。
最初の鉄道が生まれた当初は、まず満足に走らせることが最大の問題で、安全問題どころではなかった。
別の箇所でもこう書いている。
当時の社会の価値観も現在とは大きく違っていて、安全第一よりも新しい発見と技術への挑戦の方を大切に
していたに違いない。
○ イギリス主任鉄道監督員タイムラー 1870年〜
タイムラーは安全の問題に直接政府がかかわることには否定的であった。
政府が直接鉄道の運行や安全の問題に踏み込むと責任の所在が不明確になり、かえって鉄道会社の
安全意識を弱くする恐れがある。むしろ世論の力を借りて鉄道会社を動かした方がよいというのが
彼の考えであった。
したがって、1860年代から80年代にかけて、鉄道監督部はもっぱら安全の勧告を
出すにとどめ、強制力のある命令はほとんど出していない。
この時代に監督員たちは繰り返し「ロック、ブロック、ブレーキ」と言いつづけた。
→この考え方は正しいと思う。
ロック :駅の連動装置
ブロック:閉塞システム
ある区間に1本の列車が進入すると、その区間には他の列車は入れない。
ブレーキ:説明不要だろう
しかし、事故多発により、その後1889年商業委員会の命令に強制力を与えるよう鉄道法を変更。
1919年に交通省に引き継ぐことになった。
○ 事故の教訓に学ぶ
大事故というのはシステムの最大の弱点をついて起こることが多い。
これを教訓として生かすことが安全技術の進歩につながり、鉄道の安全性の向上に貢献する。
大事故が多いことは不名誉なことだが、その事故を教訓として、より優れた安全システムを作って
いくことができれば、鉄道の安全の進歩につながる。
○ 安全システムの確立
列車本数が増え、スピードが高くなってくると、きちんとした安全システムが欠かせなくなる。
鉄道固有の安全システム「ロック、ブロック、ブレーキ」
通信技術、鉄鋼技術、電力技術の進歩
安全に対するきちんとしたルールの確立と、メンテナンス技術の進歩
点検頻度については、多くの事故やトラブルを経験して初めてきちんとしたものができる。
ヨーロッパの鉄道では19世紀末に確立
○ 安全の基本
鉄道の安全の基本は、鉄道固有の安全システムの確立と、基礎技術の進歩と、きちんとしたルールの制定にある。
そのどれかに欠陥があると事故が起こる。
重大な課題として人間のミスの問題がある。
19世紀に築き上げた「ロック、ブロック、ブレーキ」を中心とする安全システムも、人間の注意力に
頼っている面が多い。この問題が20世紀の鉄道の安全にとっての最大の問題だった。
○ 桜木町電車火災事故の教訓
戦後、多数の復員した人たちを採用した当時の国鉄では、緊急時の教育や訓練が十分行き届いていなかったに
ちがいない。事故を防ぐだけではなく、事故が起きたときの適切な処置によって事故を大きくすることを
防ぐことができる。これはあくまでも人間の機敏な判断と日ごろの訓練が決め手になる。
この事故のあと、国鉄では安全の憲法ともいうべき「安全の確保に関する規程」を定めた。
それまでは安全の基本方針を定めた規則はなかった。
1 安全は、輸送業務の最大の使命である。
2 安全の確保は、規程の遵守から始まり、不断の修練によって築きあげられる。
3 確認の励行と連絡の徹底は、安全の確保に最も大切である。
4 安全確保のためには、職責をこえて一致団結しなければならない。
5 疑わしい時は、手落ちなく考えて、最も安全と認められるみちを採らねばならない。
→ JR西日本がこのほど理念を見直し安全憲章を定めたが、まさにこの思想がきっちり入っている。
むしろそのものと言ったほうがいい。
そもそも民営化されたときにこの安全の確保に関する規程は引き継がなかったのであろうかという
素朴な疑問がある。
この国鉄時代の憲法からJR西日本は外れていたために起こった事故ではなかったのではないのだろうか?
JR西日本HPから引用 http://www.westjr.co.jp/torikumi/progress/
4月1日には、安全を最優先する企業風土を構築するため、当社がめざすべき姿、全社員が共有すべき価値観である新たな「企業理念」と、
この基本的価値観を共有した上で、日々の行動指針と位置付ける「安全憲章」を制定しました。
今後、日常の行動で実践していくことにより、この「企業理念」と「安全憲章」を具体化していくことに全力を尽くしてまいります。
○ 電化工事の英断
日本は山が多く、蒸気機関車は適さず電車が必要な国であったが、電化した区間は爆撃に弱いという軍部の反対で
電化は進んでいなかった。
西村英一国鉄電気局長(後に自民党副総裁)が、駐留軍総司令部民間運輸局(CTS)に何度も通って、
鉄道電化の必要性を説明し、了解を取り、昭和21年2月電化工事がスタートした。
こういう技術者のリーダーの存在と、技術陣の情熱が戦後間もない次期に、常識はずれとも言える電化工事を
可能にしたのであろう。もしこうした努力の積み重ねがなければ、新幹線も恐らく生まれなかっただろう。
それと同時に、戦争が終わって軍部からの反対がなくなったことと、敗戦によって軍部や官僚からの支配が突然
なくなった時期を好機ととらえて技術者たちが自分達の抱いていた夢の実現に取り掛かったのではなかろうか。
鉄道の電化も、高速台車も直接安全のために始めたプロジェクトではない。しかしその技術は安全のために大きく
貢献した。
→ ここは読んでいてとても嬉しく元気づけられたころである。
○ 地味だが重要な出来事
古いルールの改正のことである。
列車運行と検査修理のための「きちんとしたルールの確立」が安全な鉄道のためには欠かせない。
大正12年のルールの改正が戦争のためにできていなかった。
これを10年かかりで改正した。
事故の教訓から新しく盛り込んだ内容
・列車のブレーキ距離は非常ブレーキをかけた場合、600m以内で停止できること
・いったん列車が事故などで停まった場合に、二重事故を防ぐために、まず他の列車を停める処置をとること
○ 国鉄入社
このあとは山之内さんの入社以後の話しに切り替わる
昭和31年入社である。
ちょうど上記のような戦後の混乱を経て、東海道線の全線電化が完成し、新幹線プロジェクトがスタートした年で
あったが、青函連絡船洞爺丸、そして紫雲丸の沈没事故があった年でもあり、安全は極めて深刻な状況だっとと語る。
運転手として実際に運転をし、ミスもした経験を語る。今のキャリア組の人も運転をやるのだろうか?
電力でも運転員は経験する。やはり現場経験は重要だと思う。
○ 現場経験
安全問題は建前論だけですまない。
そのために現場に入って、第一線で働く人たちと一緒に仕事をしてみないと本当のところはわからない。
その意味で現場で過ごした3〜4年の経験は大変貴重なものだった。
現場の人たちの安全に対する真剣さ、チームワーク、仲間意識、自分たちで作り出した仕事のやり方、
時としてはそれが事故につながることもある。
学びとることは多かった。
○ 運転手見習
九州門司機関区に2年目に配属。
定刻どおり駅の定まった位置に停めること。
蒸気機関なのでどこで蒸気を送り、ブレーキをどこでかけるかとても難しい。
失敗例: 機関車を列車に連結した時に逆転器を前進位置にするのを忘れた。
先輩の先生が「連結器がちょっと重かったばってん、バックしたですたい」とかばってくれた。
その後東京機関区に
急行組 東京駅を発車した急行列車は、午前0時から1時ごろ沼津に到着し、
そこで仮眠をとって、今度は5時ころに続々と到着する東京駅行き急行列車に乗務。
当時の仮眠室は10畳くらいに8人の布団という過酷なもの。
朝のラッシュ運転は睡魔との戦いで非常につらい。
各駅停車にぶつからないようにゆっくり走らないといけないからである。
ある日、大船駅の場内信号機を見て「場内警戒」と喚呼したあと意識がわからなくなった。
はっと気がつくと、列車は停まりそうな速度で動いていて、目の上に出発信号機の赤信号が見えた。
あわてて電車を停めた。
危ないところだった。横をみると本務の教導機関士も眠り込んでいた……。
→ 正直に自分のエラーを開示されている。
このときの若い山之内さんのはっとした気持ちと冷や汗気分がなまなましく飛び込んできた。
フーッと思わず息を吐く場面である。
○ 東京機関区の廃止命令
自分が勤めた東京機関区を廃止することになろうとは…。
国鉄末期は激しい労使対立で現場は乱れに乱れていた。
現場というのは一歩足を踏み入れた瞬間からある程度その実情がわかるような気がする。
整理整頓の状況、通り過ぎる職員の顔つきや態度、そして雰囲気等からである。
→ これは私の持論である。
企業調査の時にも現場を回らせてもらうのは、この空気を感じたいからである。
イナクトの高山先生にも「現場に一歩入ればわかる」と言い切ったことを思い出し、
山之内さんのこの文を見たときに嬉しくなった。
○ 新鶴見操車場助役
東京機関区の後、半年ほど小樽築港機関区検査係を経て新鶴見操車場助役に。
「作業ダイヤ」と呼ぶ作業計画表と実際の作業の違いに納得できなかったが、昔からの人は意に介さず。
「あんたね、現場というのはこうしたもんなんだよ。みんあ5分でも早く仕事を終わるために一所懸命働いて
いるんだよ。もし作業ダイヤ通りやれと言ったら、今より能率は落ちるよ」
脱線した列車の代替列車かと思って機関車を回送してもらったら、事故車の屏風代わりに使われて唖然。
○ 専門委員会で安全対策向上
参宮線事故(1956年)の後に設置された「運転事故防止対策委員会」は半年後に廃止になったが
1960年に復活した。この委員会の中に「ATS専門委員会」「雪害対策専門委員会」「労働科学専門委員会」
「荷崩れ防止専門委員会」「踏切対策専門委員会」など多くの専門委員会を作った。
本委員会は局長クラスの幹部を集めるので、安全問題にあまり関心のないメンバーが多く、形式的な会議に
なりがちだったが、専門委員会は関係部門の専門家が集まり、熱心に議論して具体的な策をまとめる。
この専門委員会の安全対策に貢献した役割は大きかったと思う。
○ 安全システムの弱点を突く三河島事故の事故(1962)
「安全対策の本質を見失うな」という神の啓示だったように思う。
国鉄史上最悪の二重(三重とも言われる)衝突事故。
「安全側線」に脱線したのに起こってしまったことに衝撃。
運転士が信号が停止信号でなかったと主張して長い裁判にもなった。
この事故で国鉄全線にATS(自動列車停止装置)の設置を決定。
国鉄ではATSの必要性は理解していたが、電気部門と車両部門の間にシステムの選択についての
意見の対立があち、実現していなかった。
その不毛の議論に終止符を打つ衝突事故が昭和16年に山陽本線発生し、連続コード式のATS
採用が決まっていたが、戦争の爆撃で焼失し、戦後もなかなか進んでいなかった。
三河島事故の後で決まったATSについては山之内氏は懐疑的である。
警報装置に自動非常ブレーキがついたようなもので、運転手は反射的に信号をリセットしてしまうだろうという
意見。
しかし致し方ない理由があった。いろいろな車両があって自動ブレーキの設定が一律にはできないということであった。
最もブレーキ性能の悪い重量貨物列車が比較的高い速度で信号機に近づいたときでも、停止信号の手前で停まれるように
しないといけない。そうするとブレーキ性能のよい電車では停止信号のはるか手前に停まってしまう。
乗務員が信号機をきちんと見ていて、正しい運転操作をしている場合でも列車を停めてしまうし、列車ダイヤも混乱しかねない。
(当時はコンピュータ技術がなく列車毎に停止位置をかえる技術はなかった)
このため、このATSの欠陥をついた事故が起こることになるのである。
「機関士を信用しないのか」という反発が乗務員からあがった。
マンマシンシステムの難しさを感じたとのこと。
安全側線が効果を発揮していないことについては、安全路線に飛び込んだときはすべての信号を自動的に停止にすることで
対応。(この装置を鼠とりと呼んでいた)
二重衝突の防止は定期的に列車防護訓練を行う。
これは関口さんの講演でビデオで見せてもらった。
止まれえー、止まれえーと発煙筒を回す若い女性車掌の訓練の様子が強く印象に残っている。
三島事故の誘引ともなった過密ダイヤも見直してやめた。
列車の増発につぐ増発で無理をしたダイヤ(ツーセクションクリアを満足していないもの)を発見してやめさせた。
そんなダイヤでも毎日安全に走っているからよいではないかという不満の声があがった。
しかし原則は原則である。普段ならば説得できないことが大事故のあとは可能になる。
☆ 事故は安全システムを根本から立て直す機会なのである。
○ 新幹線
新幹線には当時考えられる鉄道の安全対策のすべてを導入した。
技術者たちの持っていた安全に対する夢を実現したのが新幹線。
ただ安全対策の寄せ集めではない。ひとつの安全システムとしてデザインしたもの。
列車衝突事故防止のためにATC設置 乗務員の信号確認ミスはほぼ完全に防げる
踏切は全くない
メンテナンス時間の確保 深夜0時から午前6時まですべての列車を停めてメンテナンスを行う。
新幹線の安全を支えているのは、ATCなどのシステムだけではなく、毎日のきちんとした車両と
地上設備のメンテナンスが大切なのである。
当初は夜間に貨物列車を走らせることになっていた。
→これは知らなかった。やらなくて正解であったと信じる。
新幹線では大事故はなかったがインシデントはあったとのことである。
開業3年目の1966年に車掌が異音と火花に気がついて列車を停めたところ最後部車両の車軸が折れていた。
その後超音波探傷装置の検査強化をはかった。
回送列車がATCに停止信号が出たが止まらず本線突入。
本線列車がATCで停止したので事なきを得た。
磨耗防止用の油のために車輪スリップによるオーバーランと判明。
全く想像だにしていないかった事件。
安全技術の難しさと安全問題の奥の深さを感じる。
ATCが停止信号を出すべきところ出ていなかった。
運転手が誤表示に気づき事なきを得た。
ATC装置の機械室のすぐ横に、大きな電流の流れる電力装置があって、その電流による電磁誘導によって
ATC電気回路の中に異常な電流が発生し、誤信号となった。
電力装置を隔離したのでなくなったが本当に信じられない事件であった。
◎ 新幹線は極めて安全なシステムで安全を支えている。
しかし安全なシステムというのはありえないし、現実に毎日のメンテナンスで安全を支えているという側面もある。
新幹線の無事故をいかに続け、その技術と経験をいかに在来線に生かすかが、これからの新幹線技術の課題ではないか
と思う。
○ フェールセーフ
かなり詳しく解説されているが、このフェールセーフは原子力の安全設計の基本でありよく知っているので内容は省略する。
最後の総括だけ引用しておこう
・エレクトロニクス回路には、継電回路とは別のフェールセーフ設計が必要となる。
2アウトオブ3 とか2アウトオブ4
・人間のミスをいかに防ぐか、この問題を解決しない限り、鉄道システムが全体としてフェールセーフになったことには
ならない。ATSやATCは人間のミスを防ぐための安全装置で、列車の運行のトータルなフェールセーフシステムの
実現を目指したものと考えてよいだろう。それが新幹線の安全を支えているのである。
他の在来線はいまだ必ずしもこのレベルに達していない。入れ換え作業、保守作業など、まだフェールセーフの
安全システムを実現するための課題が残っている部分もある。
・鉄道では「危険な時には列車を停める」が安全の基本思想
航空機のフェールセーフは鉄道と全く違う。航空機の場合には、どこかに異常が起こっても飛びつづけることが
フェールセーフとなる。このため、「フォールト・トレラント」と呼ぶこともある。
→フォールト・トレラントという言葉は知らなかった
○ 電気課長時代
1966年 京浜東北線の車両基地で検査中の電車が突然暴走し民家に突っ込むもケガ人なし。
労使関係が難しい現場でも、いざ事故復旧となると全員が一生懸命になって努力する。
年輩の強者の検査員も、いつもの労働運動家の顔は消えて、
「課長、今日は全員で頑張るからね」と微笑んだ。
→ 電力の現場でも台風や停電事故対応になると現場がひとつになる。
しかし平時は…。なんだかよく似た雰囲気を感じる。
暴走の原因は検査に安易な方法をとったせいであった。
検査中ノッチを誰かが押さえている必要があったが、それを紐で固定して、それを外すのを
忘れて電源を復旧してしまった。
この事故のあと、全電車区の電車留置線の車止めは大きなコンクリートブロックに変えられた。
○ 北陸トンネル内列車火災 (1972年)
鉄道では危険と思ったらすぐに列車を停めるのが安全の基本となっている。
ところがこの事故では、列車を停めたことがかえって被害を大きくしてしまった。
この事故のあと、国鉄は基本ルールを修正し、長いトンネルの中での火災が起きた時には
列車を停めずになるべく早くトンネルから脱出するように指導方針を変えた。
(この教訓が1996年英仏海峡トンネル火災で生きた)
この事故は非常に不運な事故だった。
当時、北陸本線にこの旧型食堂車を使っている列車は非常に少なかった。それがよりによって当時、
在来線では一番長い北陸トンネルの中で火災を起こした。もし火の手が上がるのが数分早いか遅かったら、
大事故にはならなかった。確率的に考えると信じられないほど可能性の低い事故だったのである。
それが起きる。これが安全問題の怖さであり、事故には科学や技術だけでなく、
運、不運というのがつきまとっているという思いがしてならない。
→ 2004年の美浜3号の配管破断での死傷事故。あの事故ももうすぐ点検するはずであったところに
おきた。おまけに人がそばでいて死んでしまった。同様な思いがする。
○ 規律ある職場を作る
トラブルに備えて、日ごろから十分に訓練しておかねばならない。
それと同時に、強い責任感と規律を持った職場を作っていかねばならない。
これは必ずしも駅長や区長などが強圧的で威張っている職場ということではない。
ミスをしたり、ルール違反をすることが恥ずかしく、きちんと仕事をしている人が尊敬される職場をつくることなのである。
もちろん日常の指揮命令や訓練をきちんと受けることは当然のことである。
○ 国鉄改革
( 山之内イズムの真骨頂である。その哲学には非常に共感を覚える。)
国鉄の労働運動は滅茶苦茶であったと言わざるを得ない。
労使が時として対立することは当然である。労働者の利益を守ることも労働運動の当然の機能であろう。
しかし、国営企業とは言え、指揮命令に逆らうことを奨励し、企業を崩壊に導く運動を正当化することはできない。
その行き着く果てが、スト権ストの失敗である、国鉄と労働運動の崩壊であった。
…
安全に対する国鉄の労働運動の基本的な矛盾があった。それが可能であったのは倒産という危険のない国有企業という
組織の性格が大きく影響していると思う。
安全に対して労働組合が一方的に責任があるとは思わない。
国鉄の経営側も同等の責任があったと思う。
まず労働組合の攻撃の標的になりやすい体質を持っていた。
階級的な人事システム、上位下達に偏った意思伝達システム、権威主義、前例主義、形式主義、私自らがその一員で
あったことの反省を含めて、時代の大きな変化に対応できない古い体質を持っていた。
国鉄民営後、労働組合の幹部の一人が「国鉄時代には当局を攻撃しようと思えば、いくらでも種はあった」と
笑いながら語ってくれたものだった。
経営陣のあり方に強い不信感を持ったことがたびたびある。
トップマネジメントを含めてすべての幹部が「安全は鉄道にとって最も大切である」とおっしゃる。
たしかにそう思ってらっしゃるのだろう。しかし、日常の行動や意思決定の過程を見ていると、
言葉ほどには安全を大切にし、真剣に考えているとは思えない。
関心があるのは多くの場合、輸送力の増強であり、設備投資であり、合理化であった。
そして政治問題であった。
技術部門も自らの部門に責任のある安全問題には熱心だったが、えてしてそれが設備投資の要求と、
ポストの増加にすりかわった。
…
国鉄の安全問題と労使関係の根本をたどっていくと、どうしても国営企業というそのものの性格とあり方に
かかわってくる。国鉄改革は不可避であったという思いが強い。
○ 安全対策に終わりはない
無事故が続くと、わかってはいても関心は他の問題に移ったり、経営が苦しくなると安全に対して十分な資金を
投入できなくなることも事実である。安全対策というのは、誓いの言葉を繰り返すことではない。
冷静に起こっている事故の内容と原因を分析し、全体のシステムの弱点を見つけ出して、戦略的に手を打っていく
ことなのである。繰り返し述べてきたように事故の教訓が安全をつくる。
人間のミスについても、なぜミスが起こるのか、どうしたらこうしたミスを防げるかを考えていかねばならない。
すべてを「たるみ事故」と片付けてしまうと、安全対策はとにかく精神主義に傾いていってしまう恐れがある。
誓いの言葉と指導訓練の強化を繰り返すだけでは真の安全対策にはならないのではないかと思う。
規律の強化や教育と同時に、システム全体の再検討が必要なのである。
○ 事故報告
事故隠しが発覚すると、「個人の点数稼ぎのため」とか「立身出世のため」と解説されることがあるが、
私の実感としてはそうではない。むしろ問題の本質は、それが利益共同体の中の暗黙の掟であり、
人間関係のある種の融和剤として利用されている点にある。「おまえは日ごろよく仕事をしているから、
今回は大目にみてやる。これからしっかりやってくれ」というたぐいである。
私が国鉄に入った頃はそういう雰囲気が残っていた。
人間社会にはこうした部分があるのはやむをえないかもしれない。しかし、この種にの慣習は非常に危険な
側面を持っている。最初は人間関係の温かさであったものが、いつしか当然のこととなり、エスカレート
してくる。特に国鉄の労使関係が悪くなってからは、事故を隠すことが当然の権利となっている感すらある。
…
考えを改めてみると、小さな事故でも報告してもらったほうがよい。
事務は煩雑となるが、起きていることを正確につかめる。
国鉄運転局長の時代に決断をして、
「これからは小さな阻害を含めて、事故はすべてきちんと報告すること」と命令した。
全国安全課長会議
そして部長会議
それでも無視されたので頭にきた。
本社の局長の命令が全く無視されるというのでは組織は機能していないに等しい。
そして未報告事故が明らかになる。
「あれだけ事故を隠すなと言っているのに何たることだ。今後同じことがおきたら厳罰にする」
そして、実際に護らなかった幹部を実際に厳罰にした。
これでほぼ終わった。
なんと年間200件が7000件を越えたのである。
それがあたり前の風土になったのである。
困ったこと2件
・官僚主義 小さな事故でも責任追及する姿勢
人間はちゃんとやっているつもりでもうっかりすることがある。
他のことに気を取られることもあれえば、ちょっとした思い違いもある。
こうしたことを一律に処分してはいけない。
これらもすべてミスとして処分するのであれば、管理部門や事務部門の小さなミスも処分しなければならないことになる。
この点は事故を正しく把握するシステムを維持していく上で非常に大切なことである。
・責任追及に反発
「責任追及から原因追求へ」 労働組合の指摘は全く正しい。
しかし、現実には一部の地域で原因追求すら抵抗する動きがあった。
原因の究明を「責任の追及だ」として反発するのである。
責任追及と原因追求とはその過程では紙一重のところがある。
事故やトラブルを起こした人は、すべての事実を語ろうとしない場合も珍しくない。
人間としてはそうなりがちであろう。その場合にはやや厳しく本当の原因を調査追求する必要がある。
「責任追及から原因追求へ」が「原因究明の拒絶」になってはならないのである。
→全くの同感である。
私は前述のとおり電中研時代に根本原因、背景を求めるHPES(Human Performance Evaluation System)
をかじっており考え方はこの山之内さんとまったく同じである。
実際、フロリダでのHPESコーディネータミーティングで上記日本のヒューマンエラー分析を発表した。
○ダイヤ通りの運行が安全の基本
三河島事故も、列車がダイヤ通りに走っていれば事故は起きなかった。
列車ダイヤが混乱すると、停止信号で停まる機会が多くなるだけではなく、運行計画の変更や保守作業の変更が
必要になる。その過程で事故が起こりやすくなる。列車をダイヤ通りきちんと走らせることは、
鉄道の安全の基本であり、技術と社員のモラルのバロメータでもある。
→がーーん。これは衝撃をうけた。
当たり前のことなのであるが、基本中の基本だ。
変化を起こさないこと。これが安全を守る一番大切なことなんだ。
・鉄道の運転士には自動車や航空機のような自由はない。
ただ決められた運行ダイヤ通りに、1分の遅れもないように列車を運転しなければならない。
電車の運転士が疲れたからといって気ままに休んでしまったら、その列車だけではなく、全体のシステムが
大混乱してしまう。
・自動車と鉄道の根本的な違いは「鉄道は前方を確認しながら走ることを前提としていない。」という点にある。
鉄道は基本的に有視界運転システムではないのである。
(非常ブレーキをかけてもすぐには停まることができないため)
鉄道に複雑な安全システムが発達したことの理由はここにある。
→実際、運転士をやったことがある山之内さんの言葉だけにガンガン響いてくる。
これを読んでから毎日乗るJRの運転士への敬意を持つようになった。
そういう風に見ると、しっかり示唆呼称して運転している。
定刻運行ご苦労さま、ご安全に。ありがとう。いつも心でそうお礼を言って降車している。
○ 民営化で安全性向上
「国鉄を民営化すると利益優先に走り、安全性が低下する」という意見があった。
事実は反対であった。国鉄を民営化したら事故は減った。これはパラドックスでもなんでもない。
企業にとっては安全は最も大切な問題なのである。大きな事故を起こすと企業の存続にかかわる。
これは鉄道企業だけの話しではない。自動車、航空機、各種メーカも同じであろう。
安全は国有企業よりも民営企業にとっての方が厳しい問題なのである。
最悪の場合には企業の消滅につながるからである。
ここにも安全に関する常識の矛盾のひとつがある。
○ 理屈だけではない
事故は何か理屈だけでは片付けられない不思議な側面も持っている。
「事故は事故を呼ぶ」という格言があるが、大事故がひとつ起きると続けて起こることがよくある。
鶴見事故(1963.11.9 死者161人)と458人の犠牲者が出た三池炭鉱の火災事故が
同じ日に起こったことは偶然にしても信じがたい気がする。
あまり知られていないが、鶴見事故の翌日に、山陽本線で特急列車同士が追突するという事故が
起こっている。その時、私は国鉄本社にいたが、その第一報を聞いて、運転部門の幹部が真っ青に
なって立ち上がった光景を覚えている。
○ ヒューマンファクターが課題
20世紀になると、基本となる安全システムはほぼ整ったが、今度は人間のミスによる大事故が
目立つようになってきた。安全システムが整ってくると、人間という存在の弱点と、マン・マシーン・システムの
インターフェースが大問題となった。
人間のミスをおづ防ぐか?
精神論だけで防げるのか?
人間と機械の守備範囲をどう決めるべきか?
これが鉄道の安全のための基本テーマとなった。
○ 微分係数で評価せよ
安全問題は事故の絶対値ではなく、微分係数の問題だと考えている。
何件起きているかよりも、何件減ったかが大切なのである。
○ 4つのM
MAN
MACHINE
MEDIA (情報、環境条件など)
MANAGEMENT(安全ポリシー)
山之内さんは、安全対策となるとこれに
MEANTENANCEとSYSTEMを加えたいとしている。
新幹線が安全なのは、マンとマシーンを含めた安全システムのデザインがしっかりしているからであり、
きちんとしたメンテナンスが安全を支えているのである。
○ 人かシステムか?
よく「安全の最後の決め手は人間だ」といわれる。
本当にそうなのだろうか?
これが私の根源的な疑問のひとつである。
…
もっと故障の起きないATS、故障になったときに運転士がミスを起こしにくいシステムのデザインなどの方が
精神論よりも大事故を防ぐためには有効ではないか?
という思いも頭をよぎる。
「新幹線の事故がないのはなぜか?」
それは在来線よりも人間の指導と訓練が徹底しているからなのか?たぶんそうではないだろう。
安全システムがしっかりしているからである。
こういう見方をすると「安全の最後の決め手はシステム」ということになる。果たしてどちらか?
マンとマシーンの問題は難しい。私はやはり「最後の決め手は人間だ」と思う。
しかし、それが時として、安易な精神論に陥りやすいことを恐れるのである。
○ 常識的事故論への反問(柳田邦男氏、「失速・事故の死角」から引用)
@ 「初歩的なミス」とか「専門的なミス」という区別はない
A ベテランであっても案外ミスをする
B 機械やシステムが便利になると、人間はその分だけ怠け者やぼんやり者になり、新しいミスを犯す危険が生じる
○ 便利すぎてもいけない
柳田さんの意見は正しいとした上での山之内さんの主張は以下のとおり。
人間がミスを犯すことを前提に安全システムをつくるべきだが、余計なシステムはあまり作らないほうがよいと
思っている。人間にはある程度自由に任せて、時には危険な経験もさせ、臨機応変な対応ができるようにする。
逆説的になるが、実際に事故や失敗の経験の方が、百の説教よりも効果がある。
とは言え、大事故は起こしてはならない。そこでお客様に死傷者が出るような事故はシステムで守る。
その他はなるべく人間の責任に任せたほうがよい、というのが私の考え方であり、
フランスのTGVのような連続制御式ATSの方がよいのではないかと思っている。運転士に自由に運転させるが、
本当に危なくなったらシステムが護るのである。
○ 事故には前兆がある
私は小さいけれども危ない事故や、運良く大惨事にならなかった大事故は「天による執行猶予だ」と考えている。
そこできちんとした対策をたてなければ実刑になる…。
◎ 安全対策に終わりはない。そしてビジョンと哲学も必要なのである。
つまるところ、安全はトップマネージメントの問題なのである。
→ トップマネージメントをしっかり実践された山之内さんの結びの言葉だけに重みを感じる。
2006.4.18 記