運命を開く  − 人間学講和

安岡 正篤(まさひろ)   プレジデント社


松浦祥次郎先生(原子力安全委員長)とのメールのやりとりで「義と利」について調べていたら
「義は利の元なり、利は義の和なり」という言葉をくれた高山先生((株)イナクト)から
安岡先生の名前を聞き、読んでみることにした本である。

例によって家内が図書館であたってくれたが、高松市図書館には無く県立図書館からの取り寄せと
なったこの本は、非常に年季を感じさせた。
1986年発行だから、それでも20年前のものである。

安岡先生が、自民党などの講演会での講和を集めたものである。
政治家への道を勧められたが、あくまで意見具申の立場で国家に役立とうとされたようである。

「代議士になっても、今の仕組みででは何百票の中の一票に過ぎない。それよりも、たとえば私が素心会のような
会合に出れば、派閥や利害を超越して誰もが集まってくれる。それは、政治的な野心がないからだ。だが、私が現実に
代議士になってしまえば、そうはいかないだろう。だから、今のままの方が、一代議士や一大臣になるよりも影響が
大きいし、天下国家の役に立つと思う。」


では以下に残った箇所を抜き出しておこう。
本は手元になくなってしまうので。


○ 道義性培養に成功した家康
 信長と秀吉を通じて一つ明らかに欠けているものは何か。
 それは部下を訓練するということ、学問教育を興す、風俗、精神を養うということ、これが欠如している。

 その意味において偉いのは家康です。
 家康は天下を取ると、信長や秀吉とまるで違う。天下を取って得意満面というところが一つもない。
 
 そこは信長でも秀吉でも、おかしいくらい、子供らしい。それだけ、また人に愛されるのかもしれませんけれども、
 調子がいい。得意満面、意気揚々たるものがあるのですが、それが家康にない。
 世界の歴史に政権をとって、3世紀近くも維持して、秩序と平和を保ち、国民文化を高めたというような例はない。
 たいてい10年か20年、あるいは30年か50年でごちゃごちゃになる。
 家康はその点、実に偉大です。

 ・家康の施策は、頼朝に負うところが非常にあった。家康は非常に勉強している。
  つまり歴史および政治哲学を修めている。
 ・とにかく学問、教育を盛んにして、政治の精神性、道義性をいかに培養するかということが秘訣でありまして、
  これに家康は成功した。これが家康をして長期政権を成功せしめた所以であります。

 → 会社にも通じる。
   ビショナリーカンパニーの長期政権を作ったリーダーは第5水準だったという事実がそれを物語っているように
   思う。

   http://homepage2.nifty.com/shigamatsu/Book/20050715.html

 
○ 徳
 「徳」とは、自然が物を生み育てるように、我々の中にある凡(およ)そ物を包含し育成する能力を言います。
 彼は何ができる、頭がいい、弁舌が立つ、学才があるなどという才は、大事なものであるが、大したものではない。
 「徳」というものによって「才」を培養して、初めて伸びるものです。
 「徳」という肥沃な土壌がなければ、すぐだめになる。「才子才に倒る」とはこの例。
 そこで、人間を2つのタイプに分けて、才が徳より優れている人間を「小人」、反対に徳が才よりも優れている人間を「君子」といい、
 才徳2つとも大いに発達している者を「聖人」、才徳ともつまらない人間を「愚人」と言っております。
 通常は、小人型と君子型に分ける。
 明治維新で言うと、西郷隆盛などは非常に徳の大きい人で、大いなる君子であり、勝海舟などは、どちらかと言うと、
 才が徳より優っていた小人型の偉人であります。


○ 敬と恥
 子供と言うものは、本能的に分けて言うならば、母に愛・慈愛、父に権威・尊敬・敬慕、こういう念を本能的に持っている。
 人間と動物を区別するギリギリ決着の問題は何かと言えば、「敬」と「恥」である。
 2つは人間にとって根本的に大切なものであって、これを失うと、人間は明らかに動物並になる。
 人間という獣になる。そうなると、最も悪質の獣になるわけです。外の動物が持っておらぬ知識だの才能だのといういろいろなものを
 持つから、これはどうも難物になる。その獣類から人間を進歩せしめた造化の秘密とは何か。
 − それは、人間というものに至って動物の持たない「道徳」や「信仰」という精神を付与し、発達せしめたことです。
 それらの根底的なものは「敬」や「恥」である。そのうち「敬」を建前とすれば、やがて「信仰・宗教」というものが発達し、
 「恥」という内省的なものが建前となると、「道徳」というものになってゆく。このことは従来、機会あるごとに説明してきたことですが、
 家庭においても、子供は本能的にその「愛」を母に、その「敬」を父に自ら求めておる。父は子にとって本能的に「敬」の対象で
 なければならぬのです。
 言葉とか鞭で子供に対して要求したり説教したりする前に、父自身が子供からの「敬」の対象にふさわしい存在たることが肝要です。
 父の存在そのものが、子供に敬意を抱かしめる、彼の「敬」の本能を満足させる存在であること、− それが父たるもののオーソリティである、
 だから父の存在 − 父の言動そのものが子供を、知らず知らずのうちに教化する。やさしく言えば、父の存在・父の姿・行動が、
 子供をして本能的に真似させられるものでなければならぬ。

 子供は親父の帽子を被ってみたり、親父の靴をはいてみたりする、あれはふざけておるのではないので、今のような心理が子供によって
 そんな行いとなる。


 → 耳が痛いお説教ですな。でも言われていることはモットもだ。と思います。

○ 座禅の効用
戦争恐怖症の患者の治療に困ったことがある。
そのとき、偶然発見したのは、ゴムバンドで足の高股をしばる。すると足がしびれてくる。それをある時間計っておいてパッと解く。
足の先へ血が行かなくなるから、だんだん足が腐ってくるわけで、毒素を出す。
それがパッとゴムバンドがほどかれた拍子に、反動で血液が通る、それでコトリと恐怖症が落ちた。
人間は毒素の多い人間ほど、1日のうちに、足がしびれるくらいの正座を何回かやると、心身ともに健康になる。
俺はどうも毒が多いと思う人間は、1日何回か足がしびれるほど座ってみるがよい。
そういうふうに、修行は自然なものだ。

 → なるほど。毒が多いと思うのでやってみるか。

○ 躾
 躾という字はうまくできている。「身」という字を偏にして、「美」という字を旁にした。
これは日本でこしらえた字だが、まことによく出来た字です。
体をきれいにする。人間としてのあり方、行き方、動き方を美しくするものです。


 → 安岡先生は、「字」の博士である。
   文字の意味を説き、それを生き方に結びつけるお話ぶりは見事としか言いようがない。
   松浦先生も文字や言葉の起源まで遡って思考される姿勢は美しさすら感じた。
   学びたいところである。


○ 教育とは「垂範」である。
人間が禽獣ではなく、人間らしく生きる道が道徳なのです。そこで道徳というものは刑罰ではない、理屈でもない、最も真実・自然なのだから、
そこで道徳教育、生徒の道徳実習ということになってくると、どうしても指導者・師たる者が言論よりも、強制よりも何よりも、
自然に自らお手本になるということです。身をもって垂範する。だから教育の教という字は、これは效(ならう)、人間に則り效う所となる
という字です。先生が生徒のお手本になるというのが教育です。


○「易」の理法からみた宗教と道徳
宗教というものは、文字通り、人間精神、人間生命、人間そのものの根本に反(かえ)ることであります。
何が人間の根本かというと、せっかく何億年かかってノースフィア、心霊の世界、人格の形成、動義の世界へ到達したのです。
それをわざわざ何億年もさかのぼってハイドロロスフィアだの、アトモスフィアだの、ゼオスフィアの唯物主義的世界に返らなくてもいいじゃないか。
何億年もかかって、ようやく心の世界まで来たものを、それを無視して単なる物質的世界、動物的世界へ逆戻りしようなどというのは、
大体無理な話だ。やっぱり人間の人格だとか、精神だとか、道徳だとか、信仰を重んじ、これに生きるということを考えなくては、
何がために自然が、天がここまで苦労したか、わからなくなる。これは大いなる逆行を試みるものであります。
後ろ向きもはなはだしい。前向き前向き、進歩進歩と言う連中が、得てして唯物的動物的誤謬を犯して悟らない。
前向き先生、進歩先生というものが、実はとんだ退歩先生、後ろ向き先生であることが少なくない。
そこで、アトムの世界から人間精神、心霊・人格まで発展してきた生命というものを見てくると、再び枝葉末節に走らぬように、
またそれを本に反すように努力して行くことが大切です。
そこで先ほどの話になるのですが、人間というものは、こういうわけで、いわば限りなく進歩し向上してきたものである。
この無限の過程を根とすると、ここから人間という幹を出して、そして人間の精神活動という発展をしてきた。
この少しでも高く、尊く、大いなる存在に向かおうとする本能、この心の働きが、人間に「敬する、敬仰する」という心を生ずるようになった。
そうすると<陰陽相待性理法・易の理法>によって、最も解しやすいが、「仰ぐ、参る」ということがあると、
今度は必ず「返る、省みる」という働きがある。これによって「恥づる」という心が生まれる。

仰ぐ−敬する。省みる−恥づる。この相待性心理が人間の根本的な「徳」です。
だから「仰ぎ見る」ということを知らない人間と、「恥づる」ことをわきまえない人間は、一番非人間的である。


○ 児童の能力
幼少年というものは決して無内容ではない。むしろ驚くべき豊富な内容を持っている。
大人の目から見た無内容・未熟に見える。しかし、それは大人が理知や経験からする判断で、本当は幼児でも非常に豊富な内容・潜在的能力・感受性を
豊かに持ったものなのである。それを最近になって学問研究がだんだん解明するようになってきた。

例として瀬山陽、山田方谷、橋本佐内を挙げている。


○ 情緒
近来、教育ある人々は、一般に、人間の大事な機能をもっぱら知性・知能として、頭が良いことを一番の誇りとしてきました。
そして情緒とか気概というようなものを割合に軽視しました。ところが、最近やっと心ある学者たちも、<むしろ人間に大切なものは情緒である> 
ということを証明するようになってきました。
<頭が良いということより、情緒が良いということが大事である。むしろ優れた情緒の持ち主であってこそ本当に頭もよい>
ということを説くようになってきました。これは最近、学問の趨勢の顕著な一例です。

○ 人間の本質と属性
人間たることにおいて何が最も大切であるか。
これをなくしたら人間でなくなるというものは何か。これは徳性だ。
徳性さえあれば才智芸能はいらない。否、いらないのではない、徳性があれば、それらしき才智芸能は必ずできる。

(精薄児の例)
御殿場の浅間(せんげん)神社の掃除番をしていた一人の少年の話。

この少年は精薄児で、その親は富士山麓の痩土を耕す貧乏な百姓でした。少年が馬鹿で役に立たないから、親たちは
いつも「馬鹿が!馬鹿が!」と、こづき回すので、少年は悲しく泣いてばかりいました。
泣きながら畑仕事をしていると、この富士山麓の森林は、最も植物も動物も種類が豊富なところで、
いろいろな小鳥が啼いている。少年は元来無心ですから、そのうちにだんだんつりこまれて、鳥と一体になる。
そこでいつの間にか鳥の鳴き声を覚え、カラスだの、駒鳥だの、山鳩だの、いろいろ鳴き分けるようになった。
それがいつとなく近辺の人々に知らされて、滞在客が、退屈ばらしに少年を呼んで、小鳥の声を出させる。
彼が鳴くと、また小鳥も集まってくる。それを面白がって、なにがしか金をやる。
どうやら少年は収入があるようになりました。そうするといい気なもんで、家人も彼を自慢するようになりました。
私は少年と知り合いになって、よく遊びにくるようになりました。私はどこか共通点でもあるのか、
よく愚物や狂から好かれました。
天というものはありがたいもの、面白いもので、馬鹿であるが故に、この少年もここに至れたわけです。
寄席などに行ってみると、物まねの名人がおる。猫とか犬とか鶏とかをいろいろ真似る。
けれども聞いてやがて不愉快になります。自然でないからです。


○ 子供の徳性と鍛錬
子供の徳性の最も本質的・根源的なものは、第一に暗い明るいということ。
人間が光を愛する。これは宇宙開闢(かいびゃく)・天地創造とともに生じたものです。
我々はまず光明を愛します。明るいと同時に浄(きよ)いということ、清(さや)かということ、朗らかであること、
清き赤き心、清けき心。これは古神道の根本原理で、人間も子供も、これを根本徳とします。
だから、子供は常に明るく育てなければならない。明るい心を持たせ、清潔を愛するようにしなければならない。
それから素直ということ。真っ直ぐということ、すなわち「直き心」、仏法でも「直心(じきしん)」という。
直心が人間を作る道場です。

次に忍耐。忍耐をなぜ必要とするか、天地は悠久である。造化は無限である。
したがって、人間も久しくなければいけない。
物を成してゆかねばならない。
それは仁であり、忠であり、愛であるが、それを達成してゆくものは「忍」である。