『木を見る西洋人 森を見る東洋人』
米ミシガン大学の社会心理学者、リチャード・E・ニスベット教授
(原題「The Geography of Thought」、村本由紀子訳、ダイヤモンド社)
この本を読みたいと思ったたのは常盤文克氏(前・花王会長)の以下の文を見たせいである。
読んでみて自分がアジア人の思考をしているというのを痛感させられた。
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まず本文の書き出しが問題提起として、とても鋭いですね。彼はこう述べています。
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何年か前に、中国から来たある優秀な学生が、社会心理学と推論に関する研究を私と行うようになった。
われわれがまだ知り合って間もないある日のこと、彼がこう言った。
「いいですか、先生。先生と私の違いは、私はこの世界を円だと思っていて、先生は直線だと思っていることです」
私の顔には驚きの表情が浮かんでいたはずだが、彼は平気な調子で話を続けた。
「中国人というのは、ものごとはたえず変化しながら、結局はもとのところに戻ってくると考えます。
さまざまな出来事に広く気を配り、物と物との関係を探ろうとします。
全体を見ずに一部だけを理解することはありえないとも思っています。
それに比べて、西洋人が生きているのはもっと単純でわかりやすい世界です。
中国人とは違って、彼らは全体の状況ではなく、目立つ物や人に注目します。
対象の動きを支配する規則さえわかれば、出来事を自分の思いどおりにできると思っているのです」
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11月11日 追記
東洋的考え方と西洋的考え方はゼンゼン違う、そしてその理由は…。
というのがよくわかった。
だから今後どうするんよといった明確な方針は示されてはいなかった。
しかし、今後の組織運営を考えていく際の大きなヒントを得たというのが
偽らざる感想である。
自分自身が東洋的な考え方をすることをはっきりと認識した。
この前に読んだ「モチベーションカンパニー」の主張も、
東洋的考え方一色に染まっているので共感を覚えたのだろう。
東洋的な考え方が「正しい」という訳ではない。
しかし、東洋人の組織を動かそうとした場合には、
西洋的考え方のアプローチはなかなか支持を得られないということが
よくわかった。
ただしグローバルな大競争の中で西洋的思考がメインとなっている時代に
内外に向けてどのように対処してゆけばいいかというのは非常に難しい課題であろう。
すぐに読書感想をまとめたかったのだが、延び延びになってしまったので
トーンが落ちてしまいそうだが、以下に要点を記しておこう。
【序章】
・注意と知覚のパターン
東洋人は環境に多くの注意を払い、西洋人は対象物に多くの注意を払う。
東洋人は西洋人よりも、出来事の間の関係を見いだそうとする傾向が強い。
・環境を思い通りにできるか否かについての信念
西洋人は東洋人よりも強く、自分の思い通りに環境を変えられると信じている。
・安定と変化に関する暗黙の仮定
西洋人は安定を、東洋人は変化を仮定している。
東洋人 → 万事が是塞翁が馬
・世界を体系化する習慣
西洋人はカテゴリーを好み、東洋人は関係を強調する。
・形式論理学の使用
西洋人は東洋人よりも、論理規則を用いて出来事を理解しようとする。
→ 物理学は西洋で発達
・弁証法的アプローチの適用
明らかな矛盾に直面した時、東洋人は「中庸」を求め、西洋人は一方の信念が他方よりも
正しいことにこだわる(白黒をはっきりさせたがる)。
【西洋的な自己と東洋的な自己】
儒教哲学においては、人間は一人では存在しない。すべての行為は人と人の相互作用の
形でなされる。東洋には英語のindividualizmに相当する言葉がない。
東洋人にとっては状況(職場で、家で、友といる時など)を特定せずに自らを説明するのは
難しい。
一方西洋人は、自己を内集団と比較的切り離して捉えている。
自己が優れていることを実感したいという西洋的欲求
精進して自己を向上させたいというアジア的な心理
→アジア人の自己の目標は、他者よりも秀でていることや個性的であることより、
人と人との支え合いのなかで調和を維持することや、集団の目標を達成するために何らかの役割を果たすこと
相互独立性と相互協調性の訓練は文字通りゆりかごから始まる。
西洋 赤ちゃんは両親と別のベッド 子供は「発信機」であれと教育される。自分の考えを明確に人に伝えること。
東洋 〃 親と一緒 子供は「受信機」であれと教育される。他者の感情に気を遣うこと。
アジア人は論旨を上手にぼかしながら述べることを当然 → 西洋人は訳がわからない
西洋人の発言は論旨が直接的 → アジア人には恩着せがましかったり無作法に感じる
東洋人はある程度年功序列を容認する。(年長者を敬うという儒教的発想)
西洋人は抽象的な規則を好み、その規則が誰にでも当てはまると信じる傾向がある。
→ 東洋人には融通がきかない、冷酷と映る
東洋人は、状況が変われば契約を見直すことを当たり前、西洋人はいったん結ばれた契約はいつまでも有効。
→ 国際社会で誤解を引き起こす種になる。
ただし、こういった心理的特徴は、日常的なプライミング(priming : 教え込み、刷り込み)によって大いに
変化する。
・選びか合わせか−交渉のスタイル
「短期的な賢さは長い眼で見れば愚かさかも知れない」という信念が日本人にはある。
・異なる価値観
東洋人は他者の気持ちに十分な注意を払い、人間関係の調和を保つために奮闘する。
西洋人は自分自身を知ることに関心があり、公正であるためには調和を犠牲にすることをいとわない。
【目に映る世界のかたち】
アジア人は、世界を連続的な実体として見る → 包括的
西洋人は「対象物」に眼を向けがち → 個別的 分析力は優れている
【原因推測の研究から得られた証左】
アジア人は「場」、そして事物と場の関係に広く眼を向ける。 → 文脈重視 How?
数多くの要因が結果に関わっているとみなす傾向、「包括的」に見る。
このため、特定の情報を不要とすることには難色を示す。
西洋人は主として中心的な物や人に注意を向ける。 → 対象物重視 Why?
達成すべき目標を定め、それを達成させるためのモデルを構築するという「目的思考型推論」
因果関係重視
西洋人は単純さを好み、東洋人は複雑さを仮定する。
【世界は名詞の集まりか、動詞の集まりか】
★これは非常に初めて知った分析であり非常に興味を惹いた
西洋人は「名詞」、東洋人は「動詞」で考えるんだそうである。
古代中国人の世界は連続的な実体で成り立っていた。したがって、中国人にとって意味があったのは
「部分−全体」の区別だった。対象物そのものを分析することはなかった。
古代ギリシア人の世界は対象物の集まりで成り立っていたため、「個−集合」という関係は彼らに
とって自然なものだった。
この流れが現代に通じている。
西洋人はカテゴリーに分類し、その属性を定め、それを個々の事例に適用しようとする。
これに大して東洋人は関係性に基づいて世界を体系化する。カテゴリーには無関心。
傾向が強い。
・対象物の世界で育つか、関係の世界で育つか
カテゴリーは名詞によって表される → 西洋では子供に名詞で教える
関係を記述するには動詞 → 東アジアの子供は名詞と同じ速さで動詞を覚える
「動詞は非常に反応性が高く、他方、名詞は不活性である」(認知心理学者ディードレー・ゲントナー)
アメリカの母親
「これはクルマ。クルマを見てごらん。これ好きかな?かっこいい車輪がついているねえ」
日本の母親
「ほら、ブーブーよ。はい、どうぞ。今度はお母さんにどうぞして。はい、ありがとう」
アメリカの子供は世界が名詞から成り立っていることを学び、日本の子供は世界が関係に満ちていることを
学ぶのである。
西洋人は、その歴史を通じて、常に、二者択一的なカテゴリーに傾倒してきた。
二分法はいずれの時代にも氾濫しており、しばしば実りのない討論のもとになった。
「精神か身体か」というのはその一例である。
東アジアの言語は非常に「文脈的」である。単語は往々にして複数の意味を持っているため、
それらを理解するには文脈が必要である。これに対して、英語の単語は弁別性が高く、また、
英語の話者は出来る限り文脈を必要としない発話を心がける。 (なるほどなあ、そうか)
【東洋人が論理を重視してこなかった理由】
今も中国人は、論理よりも情理を志向している。
論理一貫性の主張をすると、……人を怒らせるだけでなく、人に未熟者とみなされてしまうかも
しれない。 文化人類学者 長島 信弘
東洋人は折衷的な解決や包括的な主張を好み、一見矛盾する二つの議論を両方とも是認しようとする。
東アジア人は自分の感情に矛盾があっても平気である。
日常場面において経験や欲求が論理と対立するとき、東アジア人は論理を優先することが少ない。
また、東洋人は矛盾について考慮せずに「中庸」を強調する。
アジア人は、誰でもよい環境の下で一所懸命にがんばりさえすれば、数学ができるようになると
考えている。
アメリカ人は、スキルというのはある人にはあるし、ない人にはないと信じているので
「ウリのつるにナスビはならない」と考えている。
(ちょっと例が違うような気がするのだが……)
【思考の本質が世界共通でないとしたら】
・契約
西洋 いったん確定した商取引は変更すべきでない
東洋 合意を将来の方向性について暫定的に合意したものとみなすことが多い
・訴訟
西洋 紛争解決の目的は正義の原理を満たすことにあり、紛争の場には正しいものと正しくないものがいる。
東洋 敵意を減らすことに向けられており、両者が歩み寄ることが望ましいと考えられている。
(そうかなあ?今は米国の訴訟の方が和解を目的としているように思える)
・宗教
西洋 「善か悪か」
東洋 「どちらも一理あり」
東洋の諸宗教の特徴は、宗教的な考えについての寛容さと相互の浸透である。韓国や日本では、一人で儒教も仏教も
キリスト教も信じてよいことになっている。東洋で宗教戦争が起こることは比較的稀であり、これは西洋で何百年にも
わたって宗教戦争が繰り返されたのとは対照的である。
日本の管理職は、会社の一番下層からスタートし、多くの部署を頻繁に異動することによって、常に会社の全体を
把握できるようになる。
アジア人の推論のパターンは西洋人の推論の誤りを正すための光を投げかけてくれると思うし、
同じことが東洋の思考を西洋的な視点で眺めたときにも言えると信じている。
☆☆☆
人間は矯正できないと仮定すること、もしくは行動を変えるためにはその人の属性を変えるのは難しいし、
最悪の場合には逆効果になることもある。
人の行いを正すためには、その人のよい行動が自然に引き出されるような状況を見極め、
そういった状況に身を置くように仕向ける一方で、悪い行動をとってしまうような状況から
遠ざけるのが賢いやり方である。西洋的な視点ではなく東洋的な視点に立つことによって、
道徳的行動をもたらすべきアプローチが見えてくる。
☆☆
西洋人は真実を引き出すため、あるいは少なくとも役に立ちそうな仮説をもち続けるためには
討論が有効であると確信している。
西洋の討論のあり方や討論を奨励する精神は、偏見のない開かれた社会を維持する上で重要な
ものである。
☆
複雑さに対しては大胆な態度で臨んだほうが、はやく真実に近づける。
【われわれはどこへ向かうのか】
東洋人の価値観は西洋化する。
若い母親の価値観が変化しつつある。(TVの影響??)
10年前 人間関係スキル、つまり他者とうまくやっていく能力
最近 西洋の母親とほとんど同じになった。
「うちの子には世の中で成功するだけのスキルと自立性がちゃんとあるかしら」
しばらく別の文化で生活するだけで認知プロセスに変化が生じる
【結語】
一方から他方へ、他方から一方へという双方向的な変化によって、「両者が交わることはある」
と私は信じる。洋の東西が交じり合うことで生まれるかもしれない新しい世界は、両方の社会や
認知の特徴が生かされているものの、いずれも以前のままではない。
シチューの具も同じである。それぞれの具はたしかに見てそれとわかるが、どれも元のままでは
なく変化している。だからこそシチューなのである。このシチューの中に、あらゆる文化の一番
美味しいところが入っていることを望むのは、あながち過ぎた願いとは言えないのではないだろうか。
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筆者は東西の文化が融合した新しいグローバルな文化を夢みているようだが、
それは難しいし、果たしてそこに意義があるのだろうかと思う。
お互いがお互いの考え方や文化を理解し合い、独自のものは大切に守っていくというほうが
いいのではないだろうか?
この本は、そういう意味で非常に役にたつと思う。
東洋人は東洋人の考え方、文化を守っていくとともに、西洋的な考え方を十分理解するように
学習するというのがいいのではなかろうか?
日本の企業の運営としては、東洋人を意識した戦略を考えることが有効であろう。