「私の事件簿」
中坊公平 集英社新書
豊島問題の件で中坊さんのことが気にかかり読んでみることにした。
とてもよかった。
現場重視の人である。法曹界にあって異色を放っているその信念たるやすばらしいと思う。
その経緯がわかる書であった。
ケース1 H鉄工和議申し立て事件 1960年
初めて手がけたこの事件で中坊さんは自分のスタイルを発見したのであった。
工場に通い始めて2日と経たないうちに、私は背広を脱ぎ、油まみれの作業着に袖を通した。
指しよは、工員たちに向かって「芯出しは完璧に垂直に…」などといいながら自分で機械を動かす
程度だったのですが、ついには梯子を駆け上がってクレーンの運転席へと入り、これを操縦始めた。
…
弁護士先生が作業着を着てそこまでやるかということで彼らは私を認め、信頼してくれたのだと思います。
…
いつしか社長・経営者のようになってしまったのですが、77社の債権者との交渉でこれが生きた。
というのも、H鉄工について持っている知識が実に豊富で、債権者に対しても整理委員に対しても
再建について自信たっぷりに話すもので、皆さんさほど抵抗なく判をついてくれた。
このことで気づくのある。
自分を引き上げてくれるような法曹界のボスはいないし、ツテもコネもない(お父さんも弁護士だったのですが…)。
ましてや不勉強で特に法律に強いわけでもない。
そんな私がこの世界で生きていくためには、誰より現場を知り抜くしかないんだということをこの事件を通して悟りました。
現場に足を運び、五感を総動員すれば問題の本質が見えてきますし、法律だけに頼らない迫力、説得力が出てきます。
相手方よりも、裁判官よりも現場を良く知っていることから生まれる力、説得力。
ここで勝負しようと考えたわけです。
事件を紐解く本質は法律ではなく、現場にあります。
現場の中に小宇宙があり、現場に神宿る − 私はそんなふうに考え、今日に至るまで「現場主義」を貫いています。
この事件がすべてでした。今ある弁護士・中坊公平はこの事件を手がけることにより誕生したのです。
ケース2 「M市場」立ち退き補償事件 1962年
泣き寝入りするのではなく、「情報公開」という戦法をここで使った。
その手法は豊島と同じ。豊島ルーツはここにあった。
つまり事を公にするディスクローズによる挑戦が弱者にとっては唯一の挑戦の仕方であるということ、
何も裁判所の中だけで勝負しなくてもいいんだということを、中坊さんはこのときに既にわかっていた。
座り込みに行くときは男ではなく女子供、母親はできるだけ子連れで行きなさい。これが一番いい。
と説得してやらせた。
【気づき】
中坊さんは若い時代の仕事を通じて大きな気づきを得ている。
ここでの気づきは以下のとおり。
(人間の高貴さ)
私は、この時、人間の本当の高貴さというものは、出生や社会的な地位によってあるものではないということを
はっきりと知りました。
依頼者が自分の事務所に来るときにはすでに仮面をかぶって入ってきます。
だから、依頼者のほんとの素顔というものは、依頼者が生活しているところへ行ってこそ初めてわかるものなのです。
M市場の皆さんとのつきあいをとおし、彼らの素顔に触れ、本当の意味の高貴さというのは庶民の中にこそ存在すると
いうことを私はその時に知りました。
家にお邪魔すると、たいてい駄菓子を出してくれます。京の銘菓とかいうのじゃない駄菓子です。
これがうまい。ぼんぼん育ちの私は、こんなところに本当のうまさがあるのじゃないかとその時気づくのです。
M市場へ行くのが楽しい。お金が入るとか、事件の処理がうまくいかないとかいうことを越えて、楽しいと
いうか愉快というか、毎日が映画を観ているようなものでした。
⇒ ここの高貴さというのがいまひとつピンとこなかったが、豊島問題の30年以上前に
中坊先生は庶民の味方をしていたんですね。
甘いものが好きで?糖尿病になったのかな?
ケース3 貸金返還請求及び暴行事件 1967年
取立て対象の韓国人のKから、暴行を受け、殺されそうになった経験。
弁護士は闘犬のようなもの。
依頼者のために依頼者を後ろにやって自分は最前線の立って戦う。
依頼者と弁護士は将軍と兵隊みたいなもの。向こうは命令しているだけで、こっちはやらざるを得ない。
そういう関係の本質をこの事件を通じて考えさせられた。
ケース4 タクシー運転手ドライアイス窒息死事件 1970年
遺族側にたった裁判は完勝したが後味が悪く、自分の弱みを知ることに。
死亡したタクシードライバーの補償は勝ち取ったのだけれども、奥さんが裁判中に再婚。
ドライバーの母親がとことんやるが、妻と娘はそれほどでも。
結局、賠償金は妻と娘のもとへ入り、一生懸命尽くした母親の手に渡ることはなかった。
子をなくした親にくらべて、相続権があるのに子供とか嫁さんはさほど懸命にならないことが多々ある。
親が子を思う気持ちには妻が夫を夫が妻を思う気持ちは及ばないもの。
この事件で中坊さんは唖然とした。
「平成の鬼平」中坊は仕事はできるし有能な弁護士だと言われていますが、
所詮は「お坊ちゃん」なんです。結局、人の心の襞や情念を読むということができない。
それを自分の限界として認識したとのこと。
とにかく、女の間とか親族の間とかの事件はダメ。この手の事件は引き受けないことにしているとのこと。
ケース5 森永ヒ素ミルク中毒事件 1973年
この事件の弁護団長を引き受けたことが転機となっている。
社会派への脱皮である。
●父の意外なアドバイス
引き受けることを迷ってお父さんに相談したところ、やめておけといわれずに逆のことを諭されてハッとし吹っ切れたようである。
やはり父親の存在は大きい。相談にいった中坊さんもえらいと思う。
背中を押してもらおうとは思って行っていなかったが、結果的には背中を押された格好になった。
その言葉とは、
「やっぱりやめておいたほうがええよね」と言ったその時、74歳になる父は43歳の息子にこう諭したのです。
「情けないこと言うな。お父ちゃんは公平をそんな人間に育てた覚えはないぞ。
この被害者は誰や。赤ちゃんやないか。赤ちゃんに対する犯罪に右も左もない。お前は確かに一人で飯を食えるようになった。
しかし、今まで人の役にたつことを何かやったんか。
小さい時から出来が悪かったお前みたいな者でも、人様の役に立つなら喜んでやらせてもらえ」
意外な言葉に胸が熱くなりました。子供のころから父によく「弁護士というのは、弱きを助け、強きをくじく職業だ」
と言われていたのですが、そのことが本当にわかりました。
そして私の意志は固まりました。
1年間にわたりほぼ毎週、土、日は被害者のお宅を回り、自分でも知らない世界を目の当たりにした。
手足の動かない身体を屈め、ベークライト製の皿に注がれたお茶を嘗めるように舌で飲み干して幸せそうに微笑む被害児。
近所の子供らに「アホー」と蔑まれ、水や砂をかけられても笑っていながら、自分の家に戻るなりわっと母親に泣きすがる被害児。
「被害児」と言っても17歳、18歳です。そして、そういった子供の世話をする母親たちが、ヒ素が混入したミルクを製造販売した
加害者でなく、ミルクを飲ませた自分自身をひたすら責め続けるという悲哀。
罪なくして罰せられ、地を這うように生きる被害者家族の現実はあまりにむごかったのです。
その成果は十分に生かされました。最後に中坊さんはこう結んでいます、
集団の運動論の中での森永裁判の特徴は、裁判という形式は使っていても、実態は違っていたということでした。
ある意味においては、裁判の無力化や裁判のもつ弱点をなんとか克服しなければならないという困難性を持って
いたのですが、これをそっくりそのまま「ひかり協会」に移していったのです。
したがって森永裁判を前人未到というならば、その後の「ひかり協会」を中心とする救済活動もまた、前人未到で
あったと考えてます。http://www.hikari-k.or.jp/hikari/frame-a.htm
この裁判のなかで、私は多くのことを学びました。
「一人はみんなのために、みんあは一人のために」
これが、すべての組織の運営方針でなければならないと、私は今でも強く思っています。
この後はそれほどインパクトがなかったので簡単にしておく
ケース6 小説のモデル名誉毀損事件 1982年
ケース7 自転車空気入れの欠陥による失明事件 1982年
ケース8 実刑服役者の新聞社に対する謝罪広告請求控訴事件 1983年
ケース9 看護学校生の呉服類購入契約事件 1985年
ケース10 金のペーパー商法・豊田商事事件
「管財人」を引き受けるにあたって、債権者ではなく「被害者」と言わせてくれないと受けないと
裁判所と交渉し認めさせる。
そして単身、大蔵省国税局に乗り込み、豊田商事の社員の所得税を被害者に返す段取りを取り付けた。
これはすごい。
国税局の部長の言葉が印象的だった。
「中坊さん、招かざる客という言葉をご存知ですか。実はあなたが国税局に来られる時、その都度われわれは
【また招かざる客が来た】と悪口を言っていたんです。しかし、いつもあなたはたった一人でやってきて、
お金を返してくれと言う。われわれが言うことに関して精一杯反論する。答えが間違っていようが合って
いようが、とにかく全部反論する。そのひたむきな姿勢を見ているうちに、私たちは「窮鳥懐へ入れば
猟師もこれを打たず」という意味がよくわかってくるようになりました。鶴田浩二の映画でやっていた
やくざの殴りこみの場面がよくわかりました。大勢で来たら闘えるんだけど、ああいうふうにたった一人で
気合で斬り込んでこられたら、一人を皆で殺すということはなかなかできないものなんですね。
国税局は今まで見落としていた喧嘩の仕方というものがもう一つよくわかりました。だから、そのお返しと
いうか授業料として中坊さんにあの方法を教えてあげたということです」
給与所得、事業所得、雑所得の3つのうち給与所得、事業所得に対しては源泉徴収の義務が生じるが
雑所得にはその義務はない。
豊田商事の社員の仕事は雑所得とみなして13億円を返却することとなった。
ということでした。すごい執念です。立派です。
ケース11 ホテルの名称使用差止め事件 1987年
ケース12 グリコ・森永脅迫犯模倣事件 1992年
当番弁護士を実践した事件ということで思い出深いとのこと。
現場主義の信念がここでも強く語られている。
「現場体験なくしてものごとを語るなかれ」というのが私の信条ですし、口だけではなく、
自分も1回当番弁護士をやらないといけないと思いました。
● 犯人の更生についての思い ⇒ 共感できる
この事件できわめて印象的なのは、この人は犯人であることは間違いないのですが、
どうしたら犯罪者は更生できるのかということです。そして犯罪者を取り囲む家族をどうすれば社会から救済できるのかと
いうことが大切だということです。
だから、裁判所というものは、有罪無罪の判決を言い渡すだけで、刑事の判決というのは限界があります。
そのことを通じて社会の秩序あるいは平和というものをどうやって維持していくのか。
そいいったところまで自分の視野に入れなければならない。
そういう意味でいうならこの事件を担当した裁判官はその能力が欠如していたと思われます。(執行猶予がつかなかった)
警察も検察官も単に犯人を捕まえることを追求しているだけで、もっと広い意味において犯罪を社会からなくす、
犯罪者を更生させるために、あるいは犯罪者の家族を社会から弾き飛ばしたりしないで社会がその人たちを抱えていくことに
ついて、もっと思いを致すべきだということを、この事件を通して考えました。
ケース13 産業廃棄物の不法投棄・豊島事件 1993年
この話しについては環境セミナーで地元の児島さんから話しを聞いていたが中坊先生の側からの話しが知りたくて
この本を買ったようなものだ。
都合100回も豊島に行かれているとはビックリした。
事件の概要が非常にわかりやすかったのでPDFで掲載しておく。
ケース14 不良債権・住専処理事件 1996年
最後に70歳の誕生日を迎えるまで「住管機構」と「整理回収機構」の社長を3年間無給で勤め上げた(退職金もなし)。
「罪なくして人を罰する」(何の責任もない住民の税金を使う)ことに司法に関わるものとして
慙愧に耐えないとの思いで引き受けたとの言葉。
このまま手をこまねいていることはまさに日本の司法の名折れであり、司法が歴史的な批判を受ける(おっつ、豊島の児島さんが
言っていたのはやはり中坊先生の言葉だったのか)ことになると恐れました。
それを回避するためにも、現場へ行って本来の司法の理念を生かそうと考え、社長の大役を引き受けさせていただくことにしたわけです。
☆ おわりに
ここが非常に印象的だった。その部分を抜き出しておく。
記録を読み直してみると、その時々の自分の姿が鮮明に浮かんでくる。
その姿は必ずしも美しいものでも力のあるものでもない。
しかし、ひたすら懸命に獲物を追い求めている姿がある。
けれど、自分にとっての獲物とは一体なんであったのだろう。
自分自身の現実的な御利益(ごりやく)から次第に自分の視野が広がっていき、同時にそれなりに深く考えるようになった。
その意味では森永ヒ素ミルク中毒事件が私のまさに青春時代であったことがわかる。
この事件を機に、私は世の中には不条理に泣く人があまりにも多いことに気がつき、同時にそれは生まれつきの虚弱児として、
落ちこぼれ組の一人として育ってきた自分の姿と重なり合った。
遮二無二目的を実現するエネルギーになった。
そして亡き父が私の名前を公平と決めた気持ちが少しは理解できた。
自分個人のためではなく、少しでも公のために何ができるかということを問い直していくのが
正しい生き方だと思うようになった。
しかし、この道も険しく、登るには力不足のことも多い。
それでも私は、終着駅まで一歩でも登り詰めようと思っている。
以 上