この本は素晴らしかった。
それでまとめるのに半年かかった。
8月に読んでいたのに3月にアップである。

それほど抜き出したい部分が多かったのである。
そして佐治敬三さん自身が日経新聞の私の履歴書にかかれたのをまとめた
「へんこつなんこつ」も読破。
でも、本人よりも廣澤さんのこの本のほうがずっとよかった。

本のカバーの裏にこう書いてある

 佐治敬三は酒だけを売ろうとしたのではない。
  その酒がある生活を売ろうとしたのだ……。

「新しきこと、面白きこと」
  サントリー・佐治敬三伝

    廣澤 昌     文芸春秋


これまた日経ビジネスで
筆者に聞くを見て読んでみることにした。
コピーライターであった筆者。
それだけに伝記ものとは違った雰囲気が出ている。
また自伝ではないので、よけいに人物をよく書いてしまうのかも知れない。
その効果を抜きにしても人間佐治敬三は魅力的な人である。

非常によかった。
感動して涙する場面がいくつもあった。
涙することはストレス解消によいというTVでの報告を聞いたので、
涙をこらえることはしない主義とした。
そうなると恥ずかしがらずに涙してとてもスッキリしている。

関西経済界にこういう大物が昔はたくさんいたような気がしてならない。
最近はどうも低迷を感じてしまう。
JR西日本や関西電力の事故に関しても関西経済界の声を聞かない。
佐治さんがいたらなんと言ってはっぱをかけたであろう。

佐治敬三さんは、
ダイキンの山田稔さん、森下仁丹の森下泰さんとは
関西二世経営者勉強会(昭和24年発足)での3羽がらすと称されたそうで、
息子(信忠 現社長)の媒酌は山田さんに頼んだようです。
こんなところでダイキンが出てくるとは驚いた。


佐治さんは
お母さんが48歳
お兄さんが30歳
最初の奥さんが長男信忠さんを出産の後21歳で
亡くしている。
肉親のあまりにも早い死という目に何度もあっているのだ。
そして突然、養子に出され(名前だけだが 鳥居から佐治姓へ)
また身体が弱くて学校を留年するなどつらい目に遭っています。
先生から渡された「次郎物語」が救いの書になったという

この人生のつらい経験とその克服が人格を作るんだろうなという感を強く感じないではいられなかった。


サントリーの今の社風については斎藤由香さんの「窓際OL 会社はいつもてんやわんや」でわかるが
その自由な社風の原点がよくわかった。



冒頭に山崎正和氏が寄稿している。

印象に残った箇所を書いておこう。

○ 一言で言えば佐治さんは表現する人間を愛する人であり、人間が表現するということに敬意を抱く人であった。
 
 → ウィスキーのマスターブレンダーという言葉を後で初めて知った。
   重みのある言葉である。
  
○ 酒とは極端な矛盾を統一した商品
   酒が人の心にもたらす夢幻の大きさに比べれば、その物質的な比重はほとんど書物における紙やインクの大きさに近い。
   しかし、ひるがえってその生産の場所を見れば、酒は完全に土と水との産物である。
  そこでは人間の計画や計算の働く余地は少なく、伝統的な知恵のほかに情報操作の入り込む道はまったくない。
  効用としての酒はポスト工業化時代にあるのに、生産物としての酒は工業化以前、農業時代はもとより、はるかに原始の時代に
  すらつながっているのである。
   そしてこの玄妙な矛盾の統一こそ、佐治敬三という人物を奥深く決定していた力ではなかっただろうか。





第一章 夢の狩人・誕生 − 真善美の人

生まれ、育ちの章である。

サントリーの前身 「壽屋洋酒店」 父 鳥居信次郎氏
 赤玉ポートワインで成功
 その利益をウィスキー事業へ投資

次男として生まれる。裕福な家であった。

幼稚園 「雲雀ケ丘・家なき幼稚園」 
 天地のあいだがおへやです。
 山と川が お庭です
 みなみな愉快に 遊びましょう
 大きな声で うたいましょう

 → すばらしい幼稚園ですなあ。 
  「山と川」を庭として「愉快に遊ぶ」日々が、子どもにとってどれだけ楽しくて面白いか、有意義であることか。
  野生児を育む理念  

大阪府立池田師範学校付属小学校
 わんぱく小僧ぶり
 ただ身体が弱く休みがち

  
 

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5分前? 投稿者:はやし 投稿日: 8月17日(木)00時27分19秒
> 19 5分間の精神を持続せよ  ← これってよくわからん 誰か解釈してくれ

旧海軍の心得なら、これ、「5分間」じゃなくて「5分前」のことだと
思いますよ。

意味は、言うまでもなく、「5分前行動」っていうアレです。

海軍の場合、船が寄港して兵隊さんが上陸したとき、決まった時刻まで
に戻らないと、置いていかれてしまうので、普段から5分前行動が求め
られていました。実際、門限?に遅れたら、昇進が見送られたりしてた
そうですよ。

旧海軍の大将の半生を描いた本(阿川弘之氏の「井上成美」っていう名
著です)に、こんなことが書かれていたように思います。


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日本海軍「初級仕官心得」 投稿者:四国の井崎 投稿日: 8月16日(水)18時17分19秒
今週は夏休み。
サントリー佐治敬三伝を読んでます。

「ほんきげんよう遊びなはれ」 これがいいですなあ。


さて海軍大尉だった敬三氏であるが
サントリーには海軍の匂がすると筆者の廣澤昌氏は書いている。
「新しきこと、面白きこと」


日本海軍「初級仕官心得」
戦後の日本経済の復興は、こうした訓練を受けた若い士官経験者が復員して、
リーダーとして社員を引っ張っていったことが大きいのではなかったかと
思われる。

全部で29項目


 1 熱と意気を持ち純真であれ
 2 つねに修養につとめよ
 3 広量大度でつねに快活であれ
 4 礼儀正しく、敬礼は厳格であれ
 5 旺盛な責任感をもて
 6 すすんで雑事にあたり、常に縁の下の力持ちとなれ
 7 日常座臥・研鑽に勤めよ

(注)座臥
  ざ‐が〔‐グワ〕【座×臥・×坐×臥】
「ざが」を大辞林でも検索する

座っていることと寝ていること。
おきふし。また、日常。ふだん。「行住―」「常住―」

○ いつでも研鑽しなさいということかな。

 8 信じるところを断行せよ
 9 自分で問題を解決せよ
10 報告はマメに行え
11 骨をおしむな
12 命令は忠実に、その実施は迅速確実であれ
13 船乗りらしくあれ
14 技術に対する関心を深めよ
15 回覧類は熟読せよ
16 小言を言われるうちが花
17 デアレ、ラシカレ主義であれ
18 常に整理整頓を心がけよ
19 5分間の精神を持続せよ  ← これってよくわからん 誰か解釈してくれ
20 公私の別を明らかにせよ
21 他者の依頼には快く応ずる心がけを持て
22 ものごとにはけじめをつけよ
23 常に部下とともにあれ
24 部下の指導には援厳よろしきを得よ
25 短絡(ショート・サーキット)を慎め
26 感情に訴えるような部下指導は避けよ
27 率先垂範の実を示せ
28 テーブルマナーは一通り心得ておけ
29 上陸して飲食や宿泊をするときは、一流の店を選べ


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以上までは8月に書いていたが、その後、書けていなかった。
やっと年が明けて3月になってまとめることができた。


○ 利益三分主義

父信郎 社会貢献活動
無くなった妻クニの名と社名から一字ずつとって
邦寿会  会社名 寿屋洋酒店

利益は人様のおかげだ。
三分の一を社会に還元し
    はお客様や得意様にサービスとして返す
残りの三分の一を事業資金とする

「江戸に学ぶ企業倫理」より

近江商人の「三方よし」
「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」


◎身分制の底辺に末業として制度上位置付けられ、
 道徳上でも賎商意識に囲まれていた江戸商人が、
  自らの存続を維持し営利追及の正当性を根拠づけるには、
  社会と共に生きること(三方よしなど)、
  公正な価格と利益、正直、質素、勤勉、謙譲、陰徳善事(陰での善行)……
  等々に留意して行動することが何よりも大切であった。

この三方よしの流れをうけているのが大阪堺発祥のサントリーの利益3分主義であろう。

サントリーは広範にわたる社会・文化活動を展開していますが、
その原点は、創業者鳥井信治郎の「利益三分主義」にさかのぼります。
信治郎は、利益の3分の1はお客さまへ、そしてもう3分の1は社会に還元すべきとの
強い信念を持ち、恵まれない人たちへの慈善活動、社会福祉事業に熱意を示しました。

 http://www.suntory.co.jp/company/info/idea/contents1_5.html


第二章 マスターブレンダー


◎ マスターブレンダー

この言葉はこの本で初めて知った。
いい響きの言葉である。
マスターブレンダーとは、ウィスキー企業において、
製品の味わいを最終的に決定する最高責任者のことである。

佐治敬三はマスターブレンダーとして1989年 The Keepers of the Quaich(クウェイク)
の正会員に認証された。

その30年前、1959年に寿屋の若きリーダーとして
欧米視察旅行に行っている。

なかなか企業秘密は教えてくれなかったが、
イングランドのストラミル蒸留所のトンプソン技師長は違った。

ウィスキーづくりの仲間に自慢の蒸留所を案内することは、
むしろ誇りと喜びであると語り、東洋からはるばるとやってきた敬三に
「何でも望みのものを見せてあげよう。写真も自由にどうぞ。
僕のところと君のところとよく見比べていってください」と
前置きし、親切に案内してくれた。

ここで敬三は悟る。
ウィスキーづくりにとって樽につめるまでの工程はまだ序の口で、
ウィスキーの味わいの生命線は貯蔵・熟成以降にあり、
とりわけブレンドがウィスキーの品質や個性を決める重要な要因である。
風土とか人とかがワイスキーの味わいを決めるのだ。


ここでマスターブレンダーとしての使命と責任を感じたのである。
この部分はものすごく感動した。
トンプソン技師長の親切な態度
それはハウツーではなくスコッチを作っているものは別にあるという
自信もあっただろう。それを会得した佐治さんもすごい。

私も企業調査で訪問したとき、何でも教えてくださる方に何人も
お会いした。そのとき、ハウツー以上のものを身体で会得してきた
という思いは何回もある。
知りたい、学びたい、探求したいという熱意があればそれは叶えられるということだ。

また、マスターブレンダーというもののすごさを感じた。
ウィスキーを飲むときにブレンダーの思いを感じようとして
ロックグラスを楽しめるようになった。
この本はほんとによかった。
ウィスキーがうまくなった。


妻の死
好子は産後の肥立ちが悪く、長男信忠を生んで1ヶ月もせず21歳でなくなった。

乳飲み子を抱えて敬三は号泣した。
戦争が終わったら、あれもしよう、これもしようと夢を語り、
不自由な戦時の暮らしに何も不満を口にしなかった好子が、
戦争が終わった時に、早世してしまった。
あっけなく命を奪われた健気な好子が哀れであり、
むざむざと好子を死なせた己が口惜しく、
そのうえ、母の温もりを永遠に奪われた息子が不憫でならず、
敬三は号泣し、壁をたたいた。
涙しながら獅子のごとく吠えた。
何でや、何でこうなるんや。
やがて悲しみから怒りが生まれた。
母・クニや兄・吉太郎に加え、いま、最愛の妻・好子までを奪われて、全身に怒りが充満するのを覚えた。



やがてこうした蒙昧な社会を拓いていかねばならないという対抗心と
なって燃え上がっていった。
敬三は涙を振り払い、信忠の養育を義姉・春子らに委ねると、
眦を決して若武者のごとく寿屋再興の仕事を背負って走り始めた。



● 利益が出なければ事業ではない!
「ホームサイエンス」の創刊

亡き好子と語り合った暮らしへの夢を悲痛な思いでかみ締めつつ、同世代の若い主婦に向けて送り出した。


小林一三さん(阪急グループ総裁)ホームサイエンスで「新女大学」の随筆を連載
兄嫁春子の父

創刊時から赤字と聞いて

「敬三君、それならやめたほうがいい」
「そやけど、叔父上、啓蒙誌ですから…」
「いやいや売れないのは君、社会が求めていないからだよ。
啓蒙だろうが何だろうが、事業として失敗だ。即刻やめたまえ」

敬三は、経営の神様の言葉にはっとした。
一三は、諭すようにとどめをさした。
「利益が出なければ事業とは言えん。違いますか。事業でなければ遊びですよ。道楽ですよ」

⇒ これにははっとさせられる。
  この諭しを理解し、編集発行をやめた後に2代目社長と父から認められるのである。



○ 消える若
ブレンダーは教えることができない。敬三は探求した。
山崎蒸留所の現場に何度もこもる。

そこでの若者との対話

「君すごいなあ、地図もなしにようその樽の場所に行けるなあ」
「自然に覚えてしまうんです。樽に入れるときも出すときも自分らでやるし、毎日見回っていますから」
「いやあ、ベテランンの郵便屋さんみたいやね」

「君はええなあ、毎日、この静かで芳香に満ちた蔵で働けて」

若者は、若はいい気なものだと思った。
しかし、よくよく考えると、確かにウィスキーの香りは深くてすばらしいし、
貯蔵庫は深閑として気が休まるところがある。
自分は幸せな仕事をしているのかも知れないと思った。
それに、若はええしの坊ンにしては珍しく偉ぶるところがなかった。
それどころか、自分らにも気をつかってくれるし、第一、ユーモアがある。
「ベテランの郵便屋さん」などとうまいことを言う。
こうして、若者は第二代マスターブレンダーとなる男のファンとなり、
この男のためならたとえ火の中、水の中、ということになる。
そんな職人が増えていった。

⇒いいなあ。現場を愛するマスターブレンダーの姿。
 惚れてしまう。

敬三は、ブレンダーや蔵人からウィスキーづくりの話を聞くことを好んだ。


◎ 生活文化企業
敬三はサントリーを「生活文化企業」と規定し、酒類・飲料にとどまらず、レストラン事業や
芸術・スポーツ事業、美術館・コンサートホールの開設に活動を広げ、生活文化の全領域において
新しい良質の時空間を人々に提供するに至った。
人々の生活ニーズが、物質面の満足から心の満足へと移行していたからだ。

サントリー広報の恩人、山崎正和氏は以下のように省察している。
(サントリー90年史)

この20年間(1970〜1990)に何よりも顕著な進行をみせたのは、
消費の多様化といえばその「純粋化」であった。
私の見るところ、消費は行動の形としても、精神のあり方としても生産とは
正反対の性質を持つものである。
それは、生産が効率を目指し、最小の時間に最大の価値の創造をめざすのに対して、
消費はその逆の性格を持っている。
消費の本質は楽しみであり、楽しい現在の時間の満喫である。
したがって、消費は生産と同じく、一定量の物質を消費して別の価値を生み出しながら、
むしろその時間を最大限引き延ばそうとする。
その意味で、消費の本質は時間そのものの消費であるが、この価値が70年代以降、
はっきりと市場の全面に浮かび上がってきた。
観光、外食からスポーツ、芸術にいたる広義のサービス産業、
いわゆる「時間消費」型消費の隆盛である。
それと同時に、生活条件の上で個別化された消費者は、自分の好みと自己実現の欲望を満たすために、
ますます自分に合った商品を求める傾向を強めた。


マスターブレンダー佐治敬三は、数々のサントリーウィスキーの味わいを自らの感覚を信じて創出し、
世に送りだしてきた。
ボトルに封じたのは、降り積もった時間の宝石であり、人々のくつろぎを開く豊かな時間であった。
そして、ウィスキーのみならず、企業活動を通して生活文化の坩堝をブレンドして上質な時空間を
創出していった。敬三は、生活文化全般のマスターブレンダーであったといえるのである。

⇒ いやー、かっこいいなあ。
  ウィスキーは時間の宝石のブレンドか。
  これからワイスキーをとても楽しんで飲めそうである。


第三章 パンのみにて生きるにあらず
○ 広告の人
真善美という理想価値を重視した敬三は、売らんかなだけの広告には目もくれず、その製品の付加価値を
高める広告、心を豊かにする広告を目指した。

聖書マタイ伝四章に
「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」
とある。
生存することと、生きることは違うのである。
心の価値を満たして、初めて人は幸せに生きていける。
敬三は、物だけを売ろうとせず、その物がある生活を売ろうとした。
ウィスキーをはじめ酒は、ただ酔うための「至酔飲料なのではなく、
飲んで心に豊かさをもたらす至福飲料である」という信念があった。
敬三はこのことを口を酸っぱくして言い続けた。

⇒ 感激する言葉である。
  こういうことを言い続けることができるトップはすばらしい。


第四章 やってみなはれ

第二の創業  ビールへの挑戦

「純生」のシェアは順調に伸びシェア10%に手が届きそうなところまできた。
しかし、翌年売り上げダウンの憂き目を見た。
その上、「ナマ樽」2,3リットルの注ぎ口からビールが漏れる不具合が発生し、
さんざんな目にあった。
しかし、敬三は開発担当者を叱ることはしなかった。
担当者は汚名挽回を心に誓い、注ぎ口の改良をしただけでなく、取っ手つきのプラスチック容器の
「ナマ樽」を開発し提案した。
敬三は喜んで「よさそうじゃないか、これでいこう」と言った。
重役の中には「スチール缶も残して欲しい。資材の在庫がある」という意見であった。
しかし、敬三は「後ろを振り向くな」と強い声で言った。
「在庫のムダは、君たちの給料で穴埋めしなはれ」というと呵々大笑いした。
チャレンジが失敗しても責任は問わない。
これが「やってみなはれ」精神の真髄であり、
しくじった担当者は責任感から「何でや」と問い返し、いっそうがんばっていくのである。

⇒ 上場企業でないことからもやれることではあるが、
  こういう姿勢を示してくれれば発奮しないわけがない。
  失敗は成功の元、人を責めてはならない。


・資本提携
敬三は、エージェント権の強化方策を考え、
アライド・ライオンズ社との提携に踏み切った。門外不出だったサントリーの株を同社に譲渡し、
両者が相互に株を持ち合う、資本を含んだ業務提携を行った。(平成元年)

輸入ウィスキー「バランタイン」はその成果。

⇒ このことは知らなかった。

○ 再婚
岩田工機社長・岩田誠三氏の令嬢英子と昭和51年結婚。
仲人は敬三の友人山田稔ダイキン社長夫妻。
当時の大蔵大臣の大平正芳がスピーチ。
「佐治家のおめでたい席で挨拶するのは、お酒の管轄の役所を預かる者が
払うべき税金のようなもの」と開口一番爆笑を誘い、とうとつとユーモアあふれる
温かな祝辞を述べた。

⇒ いいですなあ。この雰囲気。
  佐治さんの人徳の致すところという感を覚える。
  ご自身のスピーチでもいつもユーモアあふれる語りであるようだ。
  人間ユーモアをいつも持ちたいものだ。
  軽妙酒脱なジョークやリップサービスで座を盛り上げる敬三は、
  勢いあまって失言してしまうこともあった。
  昭和63年2月28日報道特集での仙台をコケにしたような発言があり不買運動まで広がったことが
  あったとのこと。これは知らなかった。
  お詫び行脚で大変だったようだ。


第五章 だんさんが行く−反骨の人

○信用第一
江戸時代、大阪の商人は、権威や権力、武力に頼ることなく、自らの才覚と工夫で商売を営んだ。
自由に営業できる環境が前提にあった。
これは中世から近世へという時代の変化に対応している。
競争ができる自由な場で個人が商いを続け、成功するためには、「正直」が商業道徳の基本となった。
正直を旨として、顧客に喜んでもらえる商売を心がけなければ、商いは継続発展できなかった。
信用第一が原則となったのである。
その結果、店の維持にあたっても雇い人の面倒をよくみた。
互いに甘やかしたわけではないが、面倒見がよかったことは事実である。
これを日本的経営の原点だと指摘する説もある。
自由、競争、才覚、正直−大阪商人は、これらの価値を重んじて、
しのぎをけずり、商都・大阪の経済圏を発展させていった。

○ 中国訪問
昭和46年9月 関西経済同友会が、時の政権の消極姿勢に抗し、
全国に先駆けて訪中を実現したことは、歴史的金字塔といわれている。
その翌月10月に中国の国連加盟が決まり、
11月、東京の財界4団体が訪中。
日中国交が正式に回復したのは翌年の昭和47年9月のことだった。


○ 独禁法改正案での国会答弁

「サントリーは消費財、とりわけ嗜好品のメーカとして、
品質の向上、価格の安定に懸命の努力をはらってきた。
現在のシェアにしても、そうした創業以来の努力の帰結である。
そうした企業をあたかも罪あるもののごとく企業分割という死刑を宣告するというのは
かつての悪名高い治安維持法にも類した行為ではないか。
また企業にとって、特許権と並んで製造のノウハウはまことに重要である。
ウィスキーに関して言えば、ブレンド技術は品質を決定する最も重要な要素である。
サントリーにあっては、この私がマスターブレンダーとしてすべての製品の品質について
全責任を負っている。
もし、サントリーという企業を分割しようというのなら、
まず私の身体を2つに裂いていただきたい。
経営の実態を無視した分割論の一人歩きに、わが社はすでに大きな打撃を被っている」

⇒ かっこいい。企業トップとしてこれだけ堂々といえる人が今、日本で何人いるだろうか?

○ キャッチフレーズは「美感遊創」

昭和60年、大阪商工会議所会頭に就任。
就任の記者会見で「新会頭のキャッチフレーズは?」と聞かれ、
とっさに「美感遊創」を挙げた。
これは当時の通産省の産業政策局長の福川が提唱していた。
「重厚長大」「軽薄短小」からまったく違ったキーワードを出していたことに
共感していた。
佐治さんが言った瞬間にまたたく間に日本中に拡がった。
福川さんに使用の快諾を受けことあるごとにこれを提唱した。
この言葉は、敬三は実社会に出てから心にひそかに実践してきた「真善美」の
バリエーションだった。



○ 陰徳の心
 小竹教授が日本化学会会長になったとき、初代化学会館(神田駿河台)の全額を寄付。
 森嶋通夫(浪速高校の3年後輩)の依頼を受け、経済学国際研究センターの設立の半額寄付。
 多額の寄付にただのひとつも条件をつけなかった佐治さんは「高貴、高潔で度量が広く太っ腹で
 寛大」(generosity)


第六章 「生活文化企業」 −時を開く人
○ ヨーロッパの文化
 ヨーロッパでは各家の主婦が花を飾るのは、単に自分たちが楽しむためだけでない。
それを窓辺に置いて、その喜びを外ゆく人々に楽しんでもらおうという精神である。
パブリック・マインドの発露と思われる。
彼らは居間も客が来れば公共の場と考えている。
花を窓辺に飾るのも、その領域が公共の場であるからだ。
住居における内と外の多少が、日本と西洋の公共心の多少と比例している。

敬三は行く先々で町並みが美しいことに感銘を受けた。

そして、どんな小さな町にも美術館や博物館があり、公園があり、コンサートが行われていた。
敬三はヨーロッパの、生活文化を楽しみながら生きていくライフスタイルが日本にも欲しいと
素直に思った。そうなれば、ウィスキーも売れる、ワインも売れる。それだけでなく酒が持つ
本来の機能が発揮されると考えた。
日本人の飲酒スタイルのだらしない一面も嫌いだった。
宴席での献杯と辺杯の習慣。
目上のものが権力にものいわせて飲めない目下のものに酒を強要する悪習。
限度を超えて酔っ払い、喧嘩をふっかけたり、下品な行為におよんだり、
泥酔して吐いて、道端で昏睡したり。
酔って無茶をするこうした行為は、酒を冒涜するものだと怒っていた。
酒は生活を楽しむためのよき友であり、音楽や絵画、文学と並ぶ文化だという
信念を持っていた。
欧米視察旅行を通じて、敬三は、欧米に見られるすぐれた生活文化とともに洋酒をすすめることで、
人々にそうした至福の時間を楽しんでもらうことこそは自分の使命だという思いを
ますます強くしていったのである。

佐治敬三は、生命輝く至福の時を拓く人である。


○ 企業目標

昭和30年の社報で当時専務だった敬三は、
企業の真の目的は、利益の追求にとどまらず、人類の社会生活をより豊かにするために貢献することにあると
したうえで、
社会への奉仕
良品廉価
外国品追放(国産品振興)
の3つを企業目標としていた。



○ 社長就任挨拶
昭和36年社長就任挨拶
「寿屋という会社に集まっている人々は決して偶然にできあがった群集ではありません。
共通の目的で結ばれ、組織された集団であります。
私たち寿屋の存在理由は何かといえば、
利潤の追求、
個々の人々の生活のためということも、もちろん無視できない要因ではありますが、
真の目的は、寿屋という企業を通じて社会への奉仕にあるのだと確信しています。」

父と同様、ものづくりにきわめて強い情熱を注ぎ、品質にこだわり、それが消費者に
愛用されることに無上の喜びを覚えるという敬三であった。
ものづくりは、金もうけよりもはるかに面白く、豊かな達成感、強烈な充足感がある。

忘れてならないのは、敬三の心に奥深く流れている熱い志である。
その志の源には、学生時代に傾倒してむさぼり読んだ河合栄冶郎の自由主義と
理想主義、真善美を目指して突き進みたいという衝動がある。

○ 新社是制定(昭和48年:社長になって12年目)

人間の生命の輝きをめざし
若者の勇気に満ちて
価値のフロンティアに挑戦しよう
日々新たな心
グローバルな探索
積極果敢な行動


○ 「超酒類企業への脱皮」宣言
昭和50年総合会議にて初めて長期計画を打ち出す


われわれは、現状に満足し、現状にあぐらをかいてはいないだろうか。
もしもそうしたきざしが少しでもあるならば、それは千丈の堤を崩すという蟻の穴にも似て、
極めて憂慮すべきことである」

としたうえで、次のように目指すべき目標を提示した。

われわれの基本目標は「超酒類企業への脱皮」である。
もとより、洋酒、ビールはわが社にとっての大黒柱であるが、
これらにつぐ第三の柱として、日本のみならず国際的な規模を含めた
新しい分野の開拓を掲げたい。
さしあたっての重点課題は食品部門の徹底的な強化であり、
人、物、金など、経営資源を思い切って投入したい。
次に、さらに広い事業分野における開発がある。
サントリーの新規事業分野への進出は、国内外を問わず、
むしろ無国籍的でなければならない。
大胆に、しかも細心にこうした機会を求めながら、
世界のどの国からであれ、いかなるオファーにも応じうる
能力を身につけることが必要ではないかと思う。

・この文章には何か巨大な生き物のような動きを感じないだろうか?(唐澤)
昭和20年代の敬三の文体と比べて、大きくて柔らかな、それでいて強靭なエネルギーを
包むにふさわしい文体へと進化している。
それは取りも直さず敬三自身の成熟の証であろう。

千丈の堤は「韓非子」から引用している。

○ 「生活文化企業」 
昭和54年 第二次5ヵ年計画で、目指すべき新たな企業理念として提示。

敬三は、生活一辺倒で社会が成り立つわけがないと考えていた。
鉄は国家なりという重厚長大の護送船団方式の国家運営にはつねづね腹を立てていた。
もっと目に見えない価値、美酒で談笑するときの快い時間だとか、
おいしい食事に舌鼓を打ちワインとおしゃれな会話で過ごす夕べとか、
美術や音楽を愛で楽しむひととき、そんな快い時間が自然に流れている豊かな社会を
人々は求めている。そうでなければ、それこそ「人間の生命の輝き」は
もたらされないではないか。
これは敬三の信念であり、衣食住全般におよぶデザインや生活の質を高めていくことが
いまこそ必要で、また、日本はそれだけの基礎体力を持っているとも感じていた。
「企業の存立は、社会に提供する財が社会から尊敬されることによって保障される。
社会がその財を、生活をより豊かにすることができるとした時、
その財を生活文化財、その財を生産する企業を生活文化企業と呼びたいのである」
という思いである。
サントリーの社員たちは、自分たちを「サントリアン」と呼称することが多かった。
この言葉は愛社精神をもって佐治サントリーに結集し、猛烈に仕事に取り組む
社員集団の集合意識ともいうべきものの表明であり、
「よく学び、よく働き、よく遊ぶ」熱気あふれる軍団の自信と誇りと満足が
こめられてもいた。

こうしたサントリアンでさえ生活文化企業はピンと入らなかった。
しかし、敬三が本当に言いたかったことは、
「芸術の生活化」ということではなかったか。
さらに言えば「生活の芸術化」ではなかったかと考えるのはいい過ぎだろうか。
生活の中に芸術を取り込み、生活を洗練させていくということである。


○ 御意見番作田耕三 への弔辞

(略)
わたしは父と、父を助けるあなたとのお仕事を通じて「やってみなはれ」精神を体で学び取りました。
昭和37年のビール事業への挑戦も、その「やってみなはれ」精神、企業家精神の共鳴であり、
ほとばしりであったと思います。
作田さん、父の亡き後のあなたは、私や弟にとって、まさしく経営の「師」であり、
歯に衣をきせない「御意見番」でした。
私利私欲を嫌う清廉潔白なご人格と、権威主義を排せよ、というあなたの価値規範は、
そのまま会社の心得となりました。
あなたは、つねに商人の自由闊達と独立不羈(ふき)を説かれました。
「学校を出てからが勉強やで」とさとされた若い社員は、いつまでもあなたの温顔を忘れないでしょう。
また、「団子になったらあきまへん。一枚岩の組織は一見強そうやが、一人ひとりの個性を殺して
しまいまっせ」と指摘された役員は、折りにふれ、あなたの厳しい眼光を思い出し、反省の資とすることでしょう。
私自身、何よりも「志の高さ」をあなたに学びました。
「商売のことは市場に聞かな分かりまへん」というあなたの哲学を通じて、
商売の厳しさをつかみとりました。
「融通無碍」という言葉で、先見性の必要と時代の息吹を感得する柔軟さを説いていただきました。
そしてまた、あなたは、「人間に上下はおまへん。みんなに「ご一統はん」と呼びかけなはれ。
先代もそうしはりました」と私にすすめてくださいました。
(略)

お別れにあたり、あなたのご意志を受け継ぎ「ご一統はん」ともども日々新たな挑戦を目指すことを
お誓い申し上げます。
作田さん、心安らかにお休みください。合掌。


○ あかんかったら、やめればよろし
 新製品の誕生は、父信次郎の「やってみなはれ」精神の発露であった。
 しかし、長続きしていない。
 いらちな性格の故か。撤退の名人でもあり、「あかんかったら、やめればよろし」とよく言った。
 ここらが「やってみなはれ」精神の味のあるところである。
 本業のウィスキーを育てるためのつなぎだった。
 それでも、技術の蓄積は行われる。商品はそのつど泡のように消えたが、その経験や技術は
 社内に蓄積されていった。

○ バレーボール
 創部7年目の昭和54年に全国都市対抗優勝大会(黒鷲旗)で念願の初優勝。
 大古に胴上げされた後で、
 「私はいいウィスキーやビールを作ってきたけれど、やっぱりいい人間を作るのが一番うれしいですねえ」
 と語っている。

○ サントリーオープンゴルフトーナメント
 昭和48年8月 第1回開催。

この大会はサントリー社員が総がかりで準備し、大会運営にあたる形で企画された。
敬三や副社長の道夫はこのイベントを社員教育の実践と位置づけていた。
道夫によると
「日本人はお祭りが好きな国民であるが、サントリーもまたお祭り好きな会社である。(略)
これからの企業は、社内あるいは地域社会にイベントを提供していく企業でなければ
いけないのではないか。働くこと、生きることは素敵だということは素敵だということを実感として
提供していくことが大切である。(略)
いわゆるお祭りのことをわれわれは催し物とか催事とか言っているが、
お祭りをやることによって社外的、社内的の2つに効果がある。」(「和洋胸算用」)
として、社外的には、お祭りに参加した消費者に製品や企業を理解してもらえるし、
相互の心の交流ができ、マーケティング戦略上大きな効果がある。社内的にもよい勉強になる
と、いう。
実際、来場するギャラリーへの対応は特に心を尽くし、最寄り駅に送迎バスを用意することから
始まって、家族連れで楽しめるよう大テントの食事スペースを設け、ゴルフにまつわるゲームを
楽しめるイベントスペースを充実させ、それらを社員が責任をもって実施した。
これが、自らも楽しみながらトレーニングを積む、道夫のお祭り経営手法である。


○ 美感遊創の意味

90周年記念(1989年)で次の10年への思いを語る。
私たちは21世紀の人々の願望を「美感遊創」の実現にあると考え、
豊かな生活文化の形成に貢献してゆくことを志しましょう。

「美」とは、羊の下に大きいという字。丸々と太っておいしそうな羊、
つまり、グルメ、舌の喜びを表しています。それが目の喜びとなれば美女、
さらに発展して「美しい国ぞ、あづき島、大和の国は」と国をほめる美称となる。
これらの時代は、グルメのみならず生活全般にわたり、美への願望はますます高まるでしょう。

「感」とは、感性、感情、共感というように、理論、理性を超えたエモーショナルなこころの動きです。
旅に出たり、すぐれた音楽、絵画、演劇に接したとき、あるいは本日のような素晴らしい出会いも、
私たちを感動させます。そうした感動を、人々は強く求めるに違いありません。

「遊」とは、神代から人間にとって一番大切なこと、人生を楽しく、生き生きとさせる根幹です。
余暇時間がされに増大し、遊びは生きがいと深く結びついていくでしょう。
素晴らしい遊びを提供できる心を、もってもちたいものです。

「創」とは、一刀のもとに切り裂くという字。そこに新しい断面、局面が生まれる。
自分らしい生き方、創造の喜びを実感することが、すなわち生きている実感につながると
思います。

こうした「美感遊創」こそ新しい時代に生活文化の確かな指標であり、私どもは、
そうした価値を提供するカッコイイ事業、キラキラ輝く事業をやっていきたい。
北の空に輝く北極星のように、自ら燃えて光を発する多くの星が、互いに引き合い、
光を強めあう連星軍団、「生活文化企業連星」を目指したいのであります。




第七章 「新しきこと 面白きこと」 − 響きあいの人
○ 建築家・安藤忠雄
敬三がサントリーミュージアムの建築を依頼

不安だともらしたら、「情けないことを言うな、やってみなはれ」と背中をドンと叩いて励ました。

(安藤忠雄が語る仕事(2))平成3年朝日新聞社特集記事

美術館の仕事を一緒にしていたとき、いつも佐治さんは、
とにかく人生は面白くなければならないと騒いでいましたね(笑)。
仕事をしている間はワクワクしながら生きてみろ、
感動しない人間は成功などしないぞ、と。
そのとき、佐治さんは、私とこの美術館を造りながらお互いに青春を走ろうと
思われていたそうです。
いまの若い人にわかってほしいのは、全力疾走で青春を走っている姿を見せない限り、
仕事にはありつけない。走る当事者になれということなのです。



第八章 「ワイン文化への貢献」 − アートの人


○運・鈍・根
小竹は「エトヴァス・ノイエスを考え続けていれば、必ず新しいことに出会う」と言った。
「ただ、運があって、早く掴むか、遅く掴むかということはある。結局は誰にだって、「運」は
めぐってくるのです」といい、
「だから、平素の積み重ねです。じたばた動かない。「鈍」でいい。
根気よく、発見を待ち続けるのです。
つまり「運・鈍・根」なのです」と諭した。
敬三が一番、印象に残っているのは、河合玉堂の話だった。
小竹が若い頃、河合玉堂画伯の子息が大学の二級しただった関係で、画伯の自宅で
話を聞いた。
画伯は若き日、橋本雅邦の門をたたいた。同門の兄弟子には凄く才能があるひとが
大勢いたのに、5年、10年たつうちに、みんながどこかに姿を消して、最後に「鈍」の
自分が残ったと語ってくれた。
急いで近道した人は、いつの間にか消えてなくなる。すぐれた学者でも天才でも、鈍で
なければいい仕事ができない。エトヴァス・ノイエスとは鈍であり、急いではならないということです」
と、その極意を語った。
「運・鈍・根」これがチャレンジ精神だと教えられた。


○ 浪速高テニス部
 練習が終わると若者たちは食堂に入り、ラーメンやうどんを頼んだ。
友人たちがふと気づくと、敬三は「赤玉」を必ず飲んでいたという。
そのことで、はじめて敬三が寿屋の息子であることを知ったものが多かった。
「これはな、滋養・強壮にええんやで。疲れがとれるんや。どや、君も一杯」
と勧めるのが常だった。カエルの子はカエルである。
すでにして親の後姿を見て宣伝の何たるかを知り、口コミにこれつとめて
いたわけである。


○ 人事の妙

この本を読んでいると佐治さんの人事の妙を至るところでみせつけられる。
広告部しかり、ワインしかりである。

核となる人材を発掘すると自然と人が集まるようになる。
その核をみつける眼力とその人物にが生き生きと仕事をさせる人間力
そして語る力というものを感じる。

この本の作者である唐澤さんもビール一杯で蕁麻疹が出るほど酒に弱かったが、
人間佐治敬三にほれて昭和43年に入社している。


◎ フランスの斜陽シャトーを再建、蘇らせる 1989年

アメリカのウォール・ストリート・ジャーナル紙が絶賛

シャトー・ラグランジェは1885年に格付けされたグラン・クリュのひとつだが、
スペイン人の前オーナーはワイン作りに情熱がなく、葡萄酒はさびれ、ワインの評価も地に落ちていた。
このシャトーに日本最大の洋酒メーカであるサントリーが救世主として現われ、品質重視をモットーに
再生のための費用を惜しまず、大々的な設備投資を行っていった。
この投資の成果は驚くべき速さで現われ、アメリカの著名なワイン評論家ロバート・パーカーをはじめ、
多くのワイン専門家たちが、口を揃えてシャトー・ラグランジェの大きな変わりように賞賛の意を表明している。
そればからりか、サントリーの場合、フランスの文化的にもっとも微妙な分野への日本からの初めての投資
であり、極めて珍しいケースと言えるが、地元ボルドーの人々はラグランジェの新しい城主である敬三と
そのスタッフを歓迎し、ラグランジェの再生に対しての感謝の念さえ抱いている。
 
 ⇒ 素晴らしい!!! これも敬三氏の情熱のなせる結果である。

そして昭和59年にはシャトー・ラグランジェのオーナーとして「ボンタン騎士団」の正会員に認められたのであった。



終章 遊びをせんとや − 美感遊創の人
あらゆる文化的行為の中心概念として「真面目と遊戯の相互転換」を抽出し、
人間の歴史を叙述している。(オランダのJ・ホイジンガ)
佐治敬三はまさに「真面目と遊戯の相互転換」をひたむきに行った稀有の存在であった。
エトヴァス・ノイエスを問い、つねに「新しきこと、面白きこと」を求め続けた。
「真善美」といい「美感遊創」というのは、美しすぎる言葉と言えるかもしれない。
シャイな敬三は、しかし、これを自らの信条として生きた。
おそらくは始めは人知れずこれを実践してきたが、後年、勇気をもってこれを人に勧め、
晩年をまっとうした。
これを提唱してきたのは、それだけ真剣にその価値を分かち合ってほしかったからである。